<白粉から素地美白(美肌)への道のり/化粧品業界の興味トピック>
市民権を得た「有り得ない言葉」美白
「色の白いは七難隠す」かどうかは???って場合もあるとは思いますが、
化粧品産業全体の美白ブームの勢いは止まる事なく続いています。
美白化粧品といえば、通常はスキンケア品をイメージするかと思いますが、
実際はメイクアップ製品にも美白効果が盛り込まれているので、
その市場は膨大です。
以前は美白というと春夏の製品のイメージでしたが、最近は通年美白時代のようで、
これから冬に突入するというのに、私が最近いただいた新発売の美容液も、
「美白成分配合」というのがウリでした。
ま、0,002%(少量という意味での例えです。)でも
美白成分として認可された成分が指定量範囲配合されていれば「美白化粧品」だし、
やたらと美白化粧品が増えた背景には、
美白成分を配合する事で医薬部外品となって
全成分の表示から免れるってのがあったんですけどね
(もうすぐこのグレーゾーンはなくなってくれます。)。
もともと「美白」なんて言葉は、
医学用語にも存在しないし、厚生労働省の定義にもありません(クスミしかり)。
でも、いつからか市民権を得てしまい、男性ですら馴染みある言葉になりました。
この「美白美容」を辿って、日本の化粧の歴史を見てみたいと思います。
飛ばしたらおもんないやろ、という部分が多く、思うより長くなりました。
いっそ長くなったついでに、いろいろな興味あるトピックも付け足しました。
今に引き継ぐおもしろい化粧品業界の歩みを楽しんで下さい。
1970年代の部分になると、私世代の人には懐かしい場面がたくさん出てきます。
夏の小麦肌流行と冬の美白ケア押し付けは化粧品業界のマッチポンプだった
昭和のある一時期だけは、美白より小麦肌ブームがありました。
高度成長期時代である1966年に、
資生堂が前田美波里さんをキャンペーンガールに起用して
「太陽に愛されよう」というキャッチコピーを引っ提げて「夏は小麦色」を打ち出したのです。
やたらと日焼けをあおるる宣伝に影響され、巷では小麦色の肌が流行りました。
実際はこれは化粧品会社全体の苦肉の開発が背景にあったようです。
当時はまだ戦後20数年。
やっと国民に「レジャー」という娯楽が広まった頃で、
夏は海やプールに行くのが豊かさの象徴だったのですが、
蒸し暑い夏にメイクは嫌われ、化粧品会社の売り上げが激減していたところ、
「蒸し暑い日本の夏に適したパンケーキファンデーション」の開発に成功し、
同時に、美しく日焼けした小麦色の肢体のポスターに魅せられて、
ついでに バカ売れしたのです。
私の印象に残っているテレビコマーシャルとポスターは、
小麦色の肌でビキニで走る夏目雅子さんの「Oh!クッキーフェイス」です。
1977年のカネボウのパンケーキのコマーシャルでした。
私はまだ高校生だったので、メイクはしていなかったのですが、
コマーシャルだけは印象に残っています。
今、こんなに日焼けしたキャンペーンガールが出てきたら顰蹙?
しかしですね、
天照大御神や古代エジプトのラー、ギリシャ神話のアポロンなどに見るように、
古来、「太陽」=「神」であり、「善」だったのです。
私が幼い頃のテレビのヒーローは、皆、「太陽エネルギー」を活力源としています。
「太陽の下で伸び伸び遊ぶ子供」こそが理想。
私なんかが子供だった1960年代は、流行りだのとは関係なく、
夏休みが明けて2学期の始業式では、どれだけ焼けたかを競い合っていたし、
これは私自身が聞いたかどうかは忘れましたが、
私より上世代か、私世代くらいの者は、年長者に言われた経験があると言います。
「夏に、よう焼いといたら、冬に風邪ひかへん。」
その真偽は知りませんが、
夏に白い子供なぞ、病人以外に居なかったのではないかと思います。
1970年代になっても、生っ白い肌を毛嫌いした者は焼けに焼けまくりました。
私の母世代の者は夏になると日傘を常用しており、
白肌信仰?を持っていたので、年頃になっても焼けまくる私はよく窘められました。
母世代の白肌信仰は、何もオゾンホール問題ではありません。
色白を希求する日本古来の美意識に基づくものです。
これについては下記へと続きます。
ところで、化粧品会社の戦略はすごかった・・・。
化粧品会社は夏が終わると、また美白志向をあおる宣伝をして、
消費者の美白志向を高め、
「焼いた肌を白くするための化粧品」を市場に送り込みました。
「春夏・小麦肌」と「秋冬・美白」のサイクルでのマッチポンプです。
注・ところが、一つおもしろい記事があります。
このような「夏は小麦肌」全盛の1972年に、
資生堂主催の国際シンポジウム「光と皮膚のセミナー」で、
紫外線の悪影響についての講演や討論がなされています。
まだ非常に先進国的な取り組みであり、世間の感心は低かったそうです。
オゾン層が破壊したから終わった小麦肌ブーム
しかし、1980年はじめに南極でオゾンホールが発見されて以来、
紫外線のマイナス面がクローズアップされてしまい、
1980年半ばには、また通年、白肌ブームが再来しました。
神であり、善であった太陽光は、地球の全ての生命の源でありながら、
そこに含まれる紫外線は生命を脅かします。
ここから、化粧品会社は「UVカット化粧品」に力を入れ出し、
「白くなる」というと薬事法に違反するけど、
さり気なく「もとの素地が」白くなる事を思わせる、
あるいは「今日当たった紫外線の影響を省く」ような
「美白ケア化粧品」の開発に力を入れ出します。
なんと、私は30代の1990年代になっても、生白さには興味がなく、
海遊びが好きだった背景もあって、まだ真っ黒になるのが大好きでした。
私には白肌信仰がまるでないので、白い肌の何が良いのか、
今でも本質的には理解ができません。
ただ、クスミとシミについては「ヨゴレ」という認識があるので、透明感には憧れます。
要するに、「白肌」には憧れないけど、
「一点のクモリもない肌色」には憧れ続けいてるのです。
この感性自体が、今回のこのお話しの締め括りへと繋がります。
欧米人コンブレックスなんかじゃない日本の白肌信仰
さて、この白肌信仰の歴史を紐解いてみると、意外と面白いのです。
というのを書きたくなったのは、ある時、主人に
「日本人が肌を白くしたい(見せたい)のは、
何も欧米人に憧れたわけじゃないからね。」と言うと、驚かれたからです。
後でリサーチしてみると、特に男性は、
日本人の美白ブームは欧米人への憧れが原点だと思っている事が判明しました。
いえ、欧米人への憧れは、掘りの深い顔の創りそのものにはあったので、
現在の日本のメイクアップの進化があったのは確かですが、
「白肌信仰」に関しては、日本には古来からありました。
実眼で見たわけでなくとも、十二単を着る女の顔色が黒かったイメージはないですね。
たいていは白粉まみれです。
それは時代劇だかなんだかで、男性でも漠然と認識しています。
「女は昔々から白粉を塗りたくってるじゃん。
平安時代の女が欧米人を見た事があるか?」
と言うと、たいていの人は
「ホンマや。もとから白くしたかったのか。」と納得します。
辿っていくと、美白関連の化粧品が初めて登場するのは「日本書記」だそうです。
もちろん、まだ素地を白くしようとする発想のケア物ではなくて、
とりあえず白く見せるメイク物の白粉です。
日本史上初の化粧品に関する記述によると、
「元興寺の僧、観成(かんじょう)が、中国の文献を参考にして鉛粉を開発し、
女帝の持統天皇から褒美を得た」という事で、
この鉛粉こそが、日本で初めて作られた白粉のようです。
もともと白粉化粧は中国の文化でした。
中国の白粉は、
鉛粉(こ粉、唐の土)、滑石粉、白陶土、胡粉(牡蠣粉)、穀粉(稲)などです。
鉛粉(粉白粉)はその後、秦、漢時代から宮中で流行し、
前漢・後漢時代は、鉛粉(白粉白)が主流になって流行した
顔面白彩色の時代だという事です。
唐の時代は化粧文化の全盛期であり、白粉、紅、眉の化粧方法や、
結髪、装身具、服飾などは世界最高を誇っていました。
これらの化粧文化が、
遣髄使や遣唐使やによって日本に伝わったのがはじまりだとされています。
日本太古の神話「記紀」の神話にある天照大神が隠れた天岩戸、八百万神は、
面を白くして神集いをしているけれど、
これについては化粧ではなく、白は精練潔白を表現しているだけで、
禊祓いの清めに通じるものがあるために神聖視したからだそうです。
そして日本では、平安時代には、白肌への憧れが高まり、
鎌倉時代には「白肌=美」という考えが定着したとか。
しかしながら、当時はまだ白粉は貴重品だったので、
白粉を使って肌を白くできたのは貴族階級の女性だけでした。
武家や庶民階級の女性は素の肌色で居るしかなく、
手に入らないものへの執念は強くなる一方でした。
白粉を使いたいという庶民の願いは江戸時代に実現されます。
元禄文化の時代には、「化粧水」や「ヘチマ水」、
さらには「フケ取り香油」など、様々な化粧品が生まれましたが、
基本はあくまでも「白粉」と「紅」でした。
白粉は、貴族や役者や芸妓は日常的に、庶民は晴れの日に使うといった感じで、
この時代に本格的な白粉化粧文化が到来しました。
尚、この江戸時代の化粧法には地域差があったそうで、
京や大阪の女性の白粉は厚塗りで、江戸の女性は薄塗りだったそう。
関西女=ケバい、は、由緒ある伝統かい?
という事で、白肌は決して欧米人コンプレックスの表れなどはなく、
白い肌、白塗りは日本の化粧の伝統です。
有害白粉
しかしながら、
江戸時代に普及した鉛白粉は「伸び良し、付き良し、価格安い」の優れ物ながら、
恐ろしい事に、有毒な鉛を使用していたので、
長期に渡って使用すると、体に異常が生じたのです。
(当時の白粉の作り方の資料によると、
「食酢に鉛を混ぜて炭酸鉛にする」事で、肌付きを良くしていました。)
明治初期には、
おそらくは母親の母乳が原因の髄膜炎のような症状が幼児の間で流行しましたが、
白粉の鉛が原因である事は医学的には検証されずにウヤムヤになりました。
しかし、1887年(明治20年)に、
時の外務大臣・井上 邸で行われた天覧歌舞伎の中、
当時の歌舞伎役者・中村福助さんが
舞台で足の震えが止まらずに倒れるという事件が起こります。
被害者が人気俳優だっただけに大変な騒ぎとなり、
ようやっと鉛の有害性がクローズアップされました。
それは含鉛白粉による重金属中毒でした。
流石に内務省が問題視し、有鉛白粉の製造は禁止されます。
(ただし、含鉛白粉禁止令が出たのは事件後13年経った1900年(明治33年)。
40年経った1934年(昭和9年)にやっと製造が禁止され、
販売が禁止されたのは翌1935年(昭和10年)です。超「お役所仕事」丸だし。)
鉛を使わない白粉の開発により活気づいた化粧品業界
そのトロい役所仕事の最中に登場したのが、
パリ帰りの化学者である長谷部仲彦さんが1900年(明治33年)に開発した、
鉛を使わずに作られた使用感の良い白粉です。
それは1904年に「御料御園白粉(伊東胡蝶園)」として発売されますが、
この近代白粉が定着するにはしばらくの時間がかかります。
それでも安心して使える白粉として、白粉マーケットは活気づきます。
代表的な白粉商品とメーカーは、
「御園白粉・1904年(伊東胡蝶園・創業1904年)」
「中山クラブ白粉・1910年(中山太陽堂・創業1903年)」
「レート白粉・1883年(平尾賛平商店・創業1878年)」
「大学白粉(大学本舗・創業1909年)」。
大阪心斎橋にこれらメーカーの電気広告塔が建設され、大阪の風物詩となりました。
伊東胡蝶園は後の「帝人パピリオ」です。
天皇家がここの「御園白粉」を使用したので、
高額ながらに一世を風靡するほどのヒット商品となったそうです。
また、「平尾賛平商店」と「中山太陽堂」の2つの化粧品会社の勢力は、
当時では特に抜きん出て強く、
中山太陽堂の本拠地が神戸で、平尾賛平商店の本拠地が東京であったため、
「西のクラブ、東のレート」と表されていました。
創業以来、40年間も業界を二分し、華々しい戦いを繰り広げていたそうです。
|
興味トピック・
クラブコスメチックスとフルベール化粧品と
ノエビア化粧品とマリーブ化粧品の闇色?な関わり
美白とも白粉とも関係ありませんが、
「中山太陽堂の果て」として、事件的トピックを。
中山太陽堂の経営権は
現クラブコスメチックス(1939年設立)が引き継いでいます。
クラブコスメチックスは前身「クラブ化粧品」です。
戦後に資生堂などが再販制実施と共に
制度品メーカーに移行したのに対し、
クラブ化粧品は従来通りの一般品メーカーの道を歩んだため、
1954年には倒産に追い込まれ、再建されたものの、
すでに再販制に乗り遅れたので、
細々とした一般品メーカーとしてあり続けるしかない状態でした。
しかし、二代目社長の中山壽一さんが
医療機器の訪問販売者である
大倉(名前は「日」の下に「大」と書きます。変換不能)さんと出会った事で、
1973年に訪販品メーカーである「フルベール化粧品」を設立します。
以下、敬称省略します。
大倉は、わすが5年でフルベールを
上代価格(訪販化粧品の小売価格)で売り上げ100億円を達成しました。
親会社であるクラブ化粧品はフルベールのせいで影が薄くなります。
そして、大倉の、
自家用セスナで飛び回るなどの派手な振る舞いに腹を立てた、
クラブ・コンツェルンの総師である中山太一会長とのお家騒動がはじまり、
大倉は1977年に、額面4000億円のフルベールの特株を
5億5000万円で売り付けて飛び出します。
この飛び出しにはもっと深いカラクリがあり、
飛び出したのはちょうど
「フルベール化粧品リンクル70、クリーム70」に配合されていた
「アンプリン」という名の「エチニルエストラジオール」という
女性ホルモン成分
(卵巣ホルモン同じような作用を持つ合成物質で、
黄体卵胞混合ホルモン剤の一成分。薬の場合、
「卵巣機能による子宮発育不全、無月経、機能性子宮出血、
不妊症、更年期障害に於ける卵胞ホルモン欠落症や
乳汁分泌抑制に効能あり」で、
卵巣の活動を旺盛にするとされる上に、
天然の卵胞ホルモンであるエストラジオールより効き目が強く、
一日の投与量は0,02グラム〜0,05グラムとされていた。)
による、すさまじい副作用被害事件のまっ最中でした。
リンクル70のエチニルエストラジオールの含有量は
1グラム中1000国際単位(化粧品100グラム中1ミリグラム)なので、
1本28グラムのリンクル70を1ヵ月に2本使ったら、
0,56ミリグラムのエチニルエストラジオールを肌から吸収させた事となり、
さらに同リンクルクリームを重ねていたら、
相当量のエチニルエストラジオールを吸収させていた計算になります。
要するに、もともと体に異常のない者が、医師の診断なく、
黄体卵胞ホルモンであるピル
(現在の低容量ピルではなく、重容量ピルとして)を
経皮吸収させていたという事であり、
さらに悪いのは、ピルであれば、21日飲んで数日休薬するものが、
化粧品なだけに365日継続した点です。
重容量ピルは、
悪名高い当時の厚生省ですら、認可しなかったものです。
これを数年に渡って継続した者は、
人によりますが、様々な副作用に苦しみました。
しかし、異常の原因を使用化粧品のせいだと考える者は少なく、
仮に気付いて止めた者は、
正常な体に不必要な卵胞ホルモンを外から与え続けていたために、
卵巣が機能しなくなって、様々な異常に苦しんだといいます。
これらの事件は、
フルベール側のあの手この手の圧力でウヤムヤにさせていましたが、
1977年初秋のある日、
「フルベール化粧品の社内秘資料」である「皮膚障害事故報告書」が、
差出人なく書留小包で化粧品公害研究会事務局に送られて来ます。
送られた「皮膚障害事故報告書」は、
総務課長、営業本部次長の決裁印もある会社の極秘文書で、
1975年から、
大倉がフルベールを飛び出す直前の1977年9月12日のもの。
要するに、大倉の内部告発だったのです。
ところが化粧品公害研究会は、フルベール追及に立ち上がらなかった・・。
当時の厚生省も逃げ口上を並べて逃げ、
マスコミですら袖の下で丸められて、結局、話しはウヤムヤなままです。
尚、この事件については、私自身は現実では知りません。
一体、何人に被害が出たのか、
被害を受けていても他に原因を見た人も居るだろうし、
あるいは、使っていてもなんの被害もなかった人も居るだろうから、
被害を受けた人が特異体質と言われても仕方がないし、
事実は全くわかりません。
私が興味を持ったのは、「化粧品会社」の繋がりです。
フルベールを飛び出した大倉は、
他の事業も考えた気配があったものの、
訪販メーカーのボロ儲けに勝る仕事はないと思ったか、
次は「ノエビア化粧品」を設立しました。
(会社概要の創業は1964年、設立は1971年6月、
1978年にノエビア化粧品そのものの製造販売を開始とあり)。
この事件に巻き込まれた形で関わりの深い、
もとフルベール販売員であり被害者である森下晏江さんは、
後に、元フルベール化粧品の東海販社社長であった
小林良策さんが社長を務める訪販化粧品メーカー
「マリーブ化粧品」(昭和51年設立)の梅田販社の責任者になった事も
付け加えさせていただきます。
尚、現在、
潟tルベールの代表取締役社長、
潟Nラブコスメチックスの代表取締役社長はどちらも中山ユカリさんです。
就任は平成14年から。
クラブコスメチックスは昭和45年に
「マリー・クワントコスメチックジャパン」も設立しています。
|
文明開化は政府の圧力にも関わらず浸透しにくかった
日本は1868年(慶応4年)に明治維新によって本格的に開国します。
この時の世界の一流国は欧米であり、欧米に追い付くべく彩られた路線が「脱亜入欧」。
一流への道程を歩むためには西洋との同一化しなくてはならないと、
まずはヘアスタイルや服装、メイクなどの外見を
文明開化の名のもとに西洋化する動きが始まります。
特に男性は、弥生時代から明治時代を迎えるまでの数千年間に渡って
一貫して結髪(丁髷)だったにも関わらず、
官民両サイドからの断髪圧力が働き、
早くも1870年(明治3年)には西洋風に散髪するのが流行し、
丁髷は明治時代の間には実質上、消滅します。
女性については、
古代からの風習であった「引き眉」「お歯黒」が
平安時代には貴族の風習として男女なく行われていた継続で
後に武家階級、そして一般女性へと広がっており、
江戸時代には「既婚女性はお歯黒」「妊娠したら眉抜き」が風習になっていたところ、
「日本伝統の化粧は未開な国の野蛮な風習であり、欧米諸国に対して恥ずかしい」とされ、
1870年(明治3年)にまず華族に対して「引き眉」「お歯黒」の禁止令が出されたものの、
なかなか浸透せず、
1873年に皇后が率先して眉墨とお歯黒を落としたので、
それに倣う女性が多少増えたものの、
大衆レベルでは大正時代になっても「お歯黒」の風習が残る地方もあったようです。
文明開化については、女性より男性の方が柔軟だった?
というか、続いて下記に書いたように、
男性は社会に出ていたという背景によるものだと考えられます。
興味トピック・
寝化粧ってなんだ?色気とは無縁の女性の苦肉の策だよ
ところで、もともと日本での化粧感はどうだったのだろう?
大正〜昭和の資料によると、
例えば「未成年が化粧する事自体は不道徳ではない」のです。
化粧というのは上流社会では礼法であり、
中流社会では「女の子は綺麗に育つ事がつとめ」
のような風潮でした。
なんと、オゾンホール問題のない当時ですら、
日焼け止めに関しては幼児にすら必要としていたほどですが、
女盛りの30〜40代、あるいは子供を生んだその時から、
化粧からはアッサリ引退しろ、とあります。
中年女が化粧するのは「あさましい」という美意識なのだそう。
「あさましい」って・・・どーいう事なんだ?
バカ臭い。
しかし、シミやシワなど、隠したいものだらけの年齢なのに?
当時の中年?というか、
いや、まだまだ女盛りの女性はどうしていたかというと、
「寝る前に白粉を塗って、肌に染み込ませて」いたそうです。
これは、一時的であれ、肌を白くする効果があるので、
若い人でも色黒に悩む人や、
どうしても綺麗で居たい前夜のケアとして遂行していたそうです。
これを「寝化粧」「隠化粧」「忍化粧」といいます。
戦後の雑誌に、この「寝化粧」の事を
「旦那様へのサービス」と書いたものがあるそうですが、
実際はアホらしい大きな誤解で、
「ごく濃く塗る」ともあるので、白い土壁状態ゆえ、
サービスどころか嫌がらせみたいなもんだね〜。
闇の中の夜具でイビキをかくスケキヨもどきな奥さんは、
さぞ怖かったろうよ。ウシシ。 |
大衆レベルで和装から洋装へと移行するには長い年月が必要だった
化粧文化の変化については、まずは服装の変化からお話ししなくてはなりません。
服装については、1887年(明治20年)の調査によると、
東京北部で男性の87%女性の99%が和装、
1825年(大正14年)5月の銀座での調査でも、まだ男性の33%、女性の99%が和装。
1829年(昭和4年)の11月の銀座三越本店前調査で
男性39%、女性84%が和装との事で、
特に女性では、髪型だけでなく、服装もなかなか西洋化しなかった様子。
1883年(明治16年)に
欧化政策のシンボルとして施行した鹿鳴館での女性の華やかな洋装は、
外交接点である鹿鳴館婦人にだけ西洋化圧力が作用し始めただけだったようです。
実際は大衆レベルでの西洋化は大正に入って生活水準が向上し、
情報が行き渡るようになってからだとされていますが、
大正デモクラシー時代の出版ブームの中の女性誌の創刊の影響もありました。
それらは服装の西洋化に向けて、
何よりそれまで白塗りな和装化粧が洋装には不自然である事に気付いたゆえに
困ったゆえの女性たちの教本となったようです。
おもしろいと思ったのは、
明治時代に白粉以外の美白化粧品が発売されている事です。
商品名に「白」とは書かれていないものの、
1911年(明治45年)のキャッチコピーは、
浮世草子等で使用されていたフレーズ
「色の白いは七難隠す、草々美顔水をお用いあれ」とあった、
1902年に発売された「化粧用美顔水・桃谷順天館」がそれに当たるとされています。
この広告戦略は大成功で、美顔水は爆発的に売れ、
桃谷順天館の基礎が築かれ、後の「明色化粧品」へと繋がります。
それでも大正から昭和初期に発行された美容本によると、スタンダードな化粧法は、
@化粧水またはクリームを下地に塗る
A首には練白粉を板刷毛、顔には水白粉を筆刷毛でつける
(和装の場合は顔にも水白粉で濃化粧にする)
B牡丹刷毛で叩いて伸ばす
C顔のみ、粉白粉をパフか手でつける
D顔のみ、水刷毛ではいて(もしくは化粧水で両手を湿らせて押さえ)粉浮きを防ぐ
E眉と生え際を拭く
F眉墨をつける
G頬紅をつける(つけなくても良い、あるいは粉白粉の下につけても良い)
H口紅をつける
う〜ん・・・まだまだ和装的・・・。
女性のスタイル全般に於ける西洋化は、
第一次世界大戦(1914-1918)による経済成長によって、
ようやっと始まったという資料もあります。
経済成長によって労働不足を招いたために、女性達が社会進出を始め、
女性の制服が誕生したのがきっかけだという事です。
男性の場合、
1870年(明治3年/資料によっては明治4年)に近代的軍隊に洋式の軍服が採用され、
以降、軍服をモデルに郵便夫(同年)、鉄道員(明治4年)、
帝国大学(明治15年)の制服が定められて来て、
明治時代に新設された職業につく男性は制服として洋服を着るようになり、
これに数十年遅れて女性も洋装の制服を身に纏うようになりました。
女学校でセーラー服が採用され始めたのも大正から昭和のはじめの頃です。
しかしながら、1918年(大正7年)の中山太陽堂の新聞広告に掲載された
「淑女的お化粧の順序」は
@洗粉
Aクリーム
B白粉
C牡丹刷毛
D水刷毛
E濡れタオル
F頬紅
G粉白粉
もしくは薄化粧法として
@洗粉
Aクリーム
B水白粉
C頬紅
D頬紅
E叩き刷毛
Fタルカン
Gポット
というもので、これまた和装用の化粧法と思われます。
和装と洋装の化粧差は、仕上げ白粉にあり、
和装には白い顔と紅がよく映えるけれど、洋装に白い顔は合わないのですが、
化粧品会社側も、いつまでも真っ白な白粉を発売、販売していたのも確かです。
だって、まだまだ普及しない洋装に合わせた化粧品を売っても売れないもの・・・。
「鉛を使わない白粉の開発により活気づいた化粧品業界」の部分と被りますが、
明治、大正時代の各メーカーの白粉発売年を見てみましょう。
わかりやすいように和暦にします。
・中山太陽堂
明治43年/クラブ白粉
明治44年/クラブ粉白粉
クラブ水白粉
明治45年/クラブ打粉白粉
大正3年/クラブ固練白粉
タルヤン粉白粉
大正4年/美の素白粉
※ここまでは生地色まで白くなる白粉
大正4年/美の素水白粉
紙白粉
大正8年/白粉錠
大正12年/白粉錠缶入
大正15年/懐中用白粉
・平尾賛平商店
明治16年/レートの小町白粉
明治35年/リリー粉白粉
明治43年/レート練白粉
※ここまでは真っ白になる白粉
明治43年/水白粉、粉白粉
大正2年/レート固練白粉
大正15年/レート五色水白粉(卵、紫、桃、空、白)
・桃谷順天館
大正3年/美顔白粉各種(肌色、淡紅色、白)
・伊東胡蝶園
明治37年/御園白粉
御園固煉白粉
大正14年/新御園水白粉(白、肌色、桜色
新御園固煉白粉
その他、
・脇田盛真堂、明治25年/花王白粉
・佐々木玄兵衛、明治30年/うら梅おしろい、水おしろい志ら露
・長瀬商店(現・花王 )、明治39年/赤門白粉
・天野芳香園、明治39年/大学白粉
は、いずれも顔を真っ白にする白粉でした。
そんな肌色の白粉さえ稀な中、
明治39年に資生堂 は
「黄色い白粉(はな、後にやよいに改称)」と「肉黄色の白粉(かへで)」、
大正6年に「着色福原粉白粉七種(後に「七色粉白粉」と改称)
の発売に踏み切ります。
他の色は「ピンク(ばら)、牡丹(オレンジ)、緑、紫」で、白を含めて七色です。
新橋の芸者衆のようなモードの最先端をいく人々に愛用され、
「電球の下でよく映える」と人気だったそうです。
大正時代に入ると、
桃谷順天館や伊東胡蝶園、平尾賛平商店でも色付き白粉が発売されています。
しかしながら、まだ和装が多かったため、
桃谷順天堂の美顔白粉などのキャッチコピーは
「顔を明るく映えさせる」とあり、広告の女性は和服姿であったため、
どちらかというと和装向き白粉であったと推察されています。
そんな中、さっさと洋装に合わせられる多色白粉を発売した資生堂は、
化粧品市場では前衛的でした。
しかし、
欧米で色白粉が発達したのは様々な人種の様々な肌色に対応するためでしたが、
日本での雑誌での指導は
「肌色のバリエーションをTPOで使い分ける」
という方向に展開しようとしたようです。不思議・・・。
しかし、資生堂の七色粉白粉については、ちゃんと
「資生堂商品総目録」に
「色の白い人ー肉黄、ばら色、黄色
色の青い人ーばら色、牡丹色
色の黒い人ーばら色、牡丹色、紫、黄色
色の赤い人ー緑、肉黄色」
と、人それぞれの肌に適切な白粉の色選択が記されていました。
|
興味トピック・
資生堂
1872年(明治5年) 洋風調剤薬局(銀座)開業
1897年、国内初の化粧水「オイデルミン」発売
化粧品業に本格的に取り組むのは、
福原信三が資生堂二代目社長に就任してからの
1915年(大正4年)と、
業界では意外と遅い立ち上がり。
1923年(大正12年)に我が国初のボランタリーチェーン方式による、
小売機関の組織化としてチェーンストア制を導入し、
1927年(昭和2年)以降、卸し機関に販社制を敷きます。
1932年、当時最高級化粧品「ドルックス」発売
1937年(昭和12年)には消費者組織として資生堂花椿会設立。
資生堂が戦前期に組織したチェーンストア制、販社制は、
戦後に出現した化粧品メーカーの
カネボウやコーセーなどの販売チャネルの組織化に
影響を及ぼしています。
戦前前の中規模で後発メーカーであった資生堂が、
国内トップブランドへの道を歩んだのは、
化粧品業に参入してから、
すぐにニッチ的な市場を確保したからだと考えられています。
まだ真っ白の白粉しか売れない時代に洋装用の粉を発売し、
高価格化粧品を貫いていました。
この「特異性」こそが資生堂だったのです。
小学校教員初任給15円、
資生堂売り場店員月給15円、
資生堂の支配人月給60円 との事
※1928年頃の資生堂品目月価格・
・資生堂アイリス白粉ー1円50銭
(中山太陽堂クラブ白粉ー16銭
伊藤胡蝶園 御園の花ー13銭
桃屋順天館 美顔粉白粉ー23銭
高橋東洋堂 センダン粉白粉ー42銭)
・資生堂オイデルミンー大1円、小50銭
(安藤伊筒堂 オリジナル化粧水ー大50銭・小25銭
中山太陽堂クラブ化粧水ー20銭
桃谷順天館 化粧用美顔ー25銭
伊藤胡蝶園 御園の露ー25銭
高橋東洋堂 アイデアル花の水ー30銭)
・資生堂香水 「梅」−7円、「藤」−7円
高価格に対しての評判は難癖だらけでしたが、
当時の二代目社長は
「高かろう良かろう、安かろう悪かろう、は真理だ」
として馬耳東風。
高い分だけ、
豊富な知識をもって消費者に対して
説明、説得を行うようにとした戦略の一つは
各チェーン店への「資生堂製品目録」の配布、
もう一つは美容部員「ミセスシセイドウ」の派遣、
そして、商品の定価販売の実現などです。
もともと化粧品は
1953年に再販売価格維持制度(再販制度)が制定され、
定価販売が認められていた数少ない製品です。
化粧品は独禁法の適用が除外される
指定再販品目だったのです。
(認められた理由は、
化粧品の小売店での安売りの激化で乱売状態となり、
閉店廃業に追い込まれる店が続出したため)
1974年に一部の見直しがあったが、続行。
1989年の日米構造協議により、
米国側からの
「健全な競争を阻害する排他的商監修である」との指摘により
再販制度は1997年に完全廃止。
国内で最大手の化粧品メーカーであり、世界では第4位。
商号の由来は、
中国の古典「易経」の一節「至哉坤元 萬物資生」。
「資生」は日本語で「経済」と翻訳された時期がありました。
ブランドは数知れず。
超高級ブランドは「ザ・ギンザ・コスメティックス」。
40g10万円のクリームを中心に、ライン揃えで20万円ほど。
ターゲットは
「ザ・ギンザ」で年間1,200万円以上の洋服購入者だとか。
20代対象「ビューティボルテージ」
(値引きによるチャネル格差が出ないように統一単価維持ブランド)
中医学を取り入れた「シノアドア」
チェーン店専用ブランド「ベネフィーク」「キオラ」
50代対象の「アクテアハート」
ちょっと高級な「クレ・ド・ポー・ボーテ」
中年向け「リバイタル」
主婦向け「エリクシール」
百貨店専用「ザ・スキンケア」「ザ・メーキャップ」
アウトオブ資生堂ブランド
チェーン店専用ブランド「ディシラ」
百貨店専用ブランド「イプサ」「アユーラ」
バラエティショップブランド「エテュセ」
通販チャネル限定ブランド「ユーシア」「草花木果」
2000年代に入ってから、増えすぎたブランドを整理・統合し、
新ブランドなどに集約・特化する「メガブランド構想」を打ち出して
大再編に踏み切ったが、未だ乱雑。
低価格品や普及品分野に於いては
「SHISEIDO」を冠さない方針により、
エフティ資生堂の商品は「資生堂」の文字が外され「FT」としたが、
すぐに復活してしまいます。
今後、資生堂の資産といえる
「制度品チャネル=化粧品専門店」の強化を重視する傾向にある、
との事
|
興味トピック・
花王
前身・1887年創業「長瀬商店」石鹸などの日用品、小間物商
1985年「花王株式会社」に変更
「メリット」「ビオレ」「アタック」「ロリエ」等の
強力ブランドを保持する家庭用品分野でのトップ企業
化粧品市場への参入として、
ドイツのバイヤスドルフ社と提携して
スキンケア商品ニベアを発売したものの、
価格が安く点数も少ないので、日用品の延長でしかなく、
本業の付け足し程度の取り組みでしかなかった。
化粧品業界にも確固たる足場を築きたく、
1979年にアメリカのコルゲート社が売り上げ不振に陥っていた傘下の
高級ブランド「ヘレナ・ルビンスタイン」の売却に飛び付いたが、
最終調整で買収交渉は決裂。
もし、この交渉が成功していて
ヘレナ・ルビンスタインが花王の傘下だったら?
なんだかイメージ狂うな。
果たして今ほど売れたかどうか、ビミョー。
交渉が決裂したのは必然だったような気がしなくもないです。
そしてとうとう、1982年に化粧品市場に「ソフィーナ」で参入。
受けて立つ業界は騒然となり、
「花王の体質に化粧品は合わない。化粧品会社としては地味だ」と、
バッシングが相次ぎます。
また、聞いた話しですが、
それまで花王で化粧品原料を購入していた
国内大手の化粧品会社は全て、
花王との取引を止めてしまったそうです。
花王は化粧品業界に参入した代わりに、
原料屋としての仕事は無くしてしまったのですね。
しかし、
花王は量販店との繋がりの深さを武器に新しい売り場作りを行い、
セルフ販売に対応した什器やPOPを開発、発展します。
ソフィーナは当初は低迷したものの、粘り腰で臨んだだけに、
3年目からは徐々に成果が出て来て、5年後には軌道に乗り、
現在は花王はドメブランドの化粧品会社としても高いポジションです。
また、花王発売当初に意表を突いたのは、
文章と商品写真だけの広告戦略です。
必ずや女性タレントの写真で
夢を売っていた化粧品会社とは違っていました。
主役はあくまでも「品」。
そして特筆すべきは、今でこそ、
雑誌のコスメ特集には必ず科学用語が出てきますが、
「科学がわからなければスキンケアはわからない」
という風潮の現在への口火を切ったのも花王です。
花王が消費者に対して「基礎化粧は科学である」として
「肌が自ら美しくなろうてする機能」を打ち出したのが始まりだったのです。
まぁ、今では、一般消費者にわからない科学用語が氾濫する点と、
「エセ科学」だのをいかにも的に持ち出す業者まで発現して迷惑だがね。
理解しやすくなった部分もあるので、一応感謝か。
ブランドは代表の「ソフィーナ」
50代をターゲットとした「グレイスソフィーナ」
しわ対策「リンクルセラティ」
ベースメイクの「レイシャス」
ポイントメイクの「オーブ」
百貨店専用ブランド「エスト」
美白専用スキンケアの「アルブラン」
通販専用ブランド「オリエナ」
|
粉白粉の使い方も西洋式の「パフではたくだけ」は普及せず、
いつまでも水白粉の仕上げにはたく、という使い方が一般的なままだったようです。
私が想像するには、たとえ女性誌が創刊されたとしても、
それを手に入れたのは、時代の寵児か、
余裕ある一部の上層階級に止まっていた気がします。
新しい情報は日本全域には届かない時代です。
1923年(大正12年)の関東大震災後、いよいよ本格的洋装が出現し、
ようやく西洋化粧が始まったという資料もありますが、
これは「破壊」による新規再生によるものではないかと考えられ、
やはり東京都市に止まっていたような気がします。
それでもそんな中、
1923年(大正13年)の女性誌に掲載された洋装の場合の化粧として、
「白粉を薄くして、 粉色白粉を使うかまたは塗らない」
「頬紅や口紅を強くして目尻に墨をさす」
と、ベースメイクを薄くしてポイントメイクでアクセントをつけるという、
それまで「白粉をムラなく真っ白に塗る」という化粧から、
ようやく脱皮した画期的肌色革命を促します。
しかし、なかなか西洋式ポイントメイクは普及しません。
普及しなかった理由は、何も馴染みがなかっただけではなく、
モノがなくて、したくてもできなかったのが現実だそうです。
舶来化粧品を持っていた人なぞは一握り。
資生堂から国産アイシャドーが発売されたのは昭和8年。
ポイントメイクをいち早くし出したモガの全盛期が昭和2〜7年なので、
モガ達は、メイベリンやコティーなどの舶来品を使っていたのです。
昭和初期には、モボ、モガ(モダンボーイ、モダンガール)と呼ばれる
新しいスタイルの若者が街を闊歩し出しますが、
女性の断髪、丈の短いスカートはまだ少数ではありました。
珍しい新しいものを見るとヤッカミも出て、
モガは「ふしだら」と揶揄されたりもしたそうです。
舶来化粧品を使えるほどの裕福さに嫉妬したというのもありそうですよね。
西洋の女性自体も第一次世界大戦の頃に
やっと引きずるほどの長さのスカートと
窮屈なコルセットを脱ぎ捨てて断髪にしていますが、
日本でも、真似るべき西洋の変化によって、
政策的西洋化圧力ではなく、少しずつモードに身を投じて西洋化していくのですが、
それでもまだ「兆し」の段階でした。
昭和11年頃の世論は
「衣類というものの経済性、能率性、合理性などから、
我が国の婦人の和服は廃棄されるべき」とされたにも関わらず、
まだ 全般的には女性の洋装はなかなか進みませんでした。
私の知る限りでいえば、昭和5年頃の母方のおばあちゃんの写真で、
くるぶしより短い丈のスカートにニットを着た写真がありますが(モガ?)、
当時としてはまだ珍しい部類だったかも知れません。
同おじいちゃんが写る当時の写真は、
いつも三つ揃いのスーツ(現在と変わりありません)に懐中時計姿ですが、
カジュアルというものはまだまだだったのでしょう。
おばあちゃんは田舎者だったのですが、
どうも おじいちゃんが職業柄か(設計技師)、斬新な様子でした。
おばあちゃかはモガというよりは、長身ながらに控え目な可愛いタイプでした。
「明眸家」と呼ばれるほどに目が綺麗だったそうです。
おじいちゃんのイメージは「キザ」。
また、母に聞いた話しによると、第二次世界大戦後ですら、
洋服一着分の生地だけでも一般サラリーマンの月給1〜2ヵ月分に相当し、
それに仕立て代を入れると、スーツ一着で月給3ヵ月分ほどはかかったのだそうです。
加えて洋装にするという事は、靴やバッグも必要なわけで、
化繊の生地があるわけでなし、既製服があるわけでない時代に、
そうそう洋服が一般庶民にまで普及するわけがなかったのではないかと感じます。
本格的に女性の洋装が急速に多くなったのは、第二次世界大戦後だそうです。
理由は、関東体震災と同じく、やはり「破壊」からの出発だと考えられます。
アメリカという明確な西洋モデルが新たに示された上に、
ゼロに近いところから生活を再建したために、
やっとスタイルの変更に躊躇がなくなったと思われます。
女性の化粧に対する執念は戦時下でも強く・・・
ところで、第二次世界大戦中での女性はどうだったのでしょう。
「欲しがりません、勝つまでは」
「パーマネントはやめませう」のフレーズは有名ですが、
実は化粧品の広告は昭和16年にも盛んでした。
戦争初期にはまだ化粧を楽しむ余裕があったし、
召集された男性に代わって働くようになった女性たちをターゲットに
ちゃっかりと
「下地クリームと白粉を一体化させた製品」が売り出されます。
携帯できて簡単だという触れ込みです。
キャッチコピーは
「ハンドバッグ化粧にもってこい 粉がこぼれず快々的な新鮮美化粧」。
昭和16年の
「新制定 国民礼法
(国民一丸となって戦うために、国旗の揚げ方から食事まで細かく定められた制定)」
によると、
「殊更につくり過ぎるのはよくありません」
「人目につく所で化粧をなほしたりしてはなりません」という但し書きはあるものの、
「婦人は身嗜み程度の化粧は必要」とあり、戦時中でも化粧は否定されなかったのです。
毎年順調に拡大していた化粧品の出荷額がマイナスに転落したのは、
戦火が激しくなった昭和18年からの3年間のみで、
女性はモンペを履いても白粉を諦めなかったのだそうです。
ただ、さすがに昭和18年のパピリオの広告は
「時節柄、節約してお使いください」という文字だけのメッセージになり、
昭和19年2月には化粧品広告が一つも見当たらなくなったそうです。
本土空襲が激しくなると、女性達の間では
「死に顔が綺麗だと早く遺体を処置してもらえる」という当てにもならない噂が流れたのだそうで、
化粧は欠かさなかったとか?
女性の化粧に対する執念、恐るべし。
日本伝統の水仕上げはやめられなかった/肌の好みの問題か?
さて、戦後。
進駐軍の高級将校夫人のために作られた美容室で行われた美容法は
最新流行のものとして日本人に伝わります。
しかし、それまで無脂肪性のバニシングクリームを使っていた日本人にとって、
下地にコールドクリームを用いる化粧法はツヤがあるため、
「光る化粧」として捉らえたものの、
欧米人と違って日本人は化粧崩れの悩みが格段に多かったので、
油分の多いコールドクリームは夜使用にしか好まれなかったようです。
(もともと日本国での化粧は「水」、
西洋では古代から「オイル」を愛用していた背景があります。)
ファンデーションも発売されたものの、当時はまだ主役ではなく、
あくまでも白粉の下地として位置付けられていたそうです。
アメリカから輸入された油性化粧は、他にパンケーキやパンスティックなどがありましたが、
これらは厚塗りにはなるけれど、崩れにくい点と利便性が指示されたそうです。
このベースメイクの日本流アレンジは「水仕上げ」です。
昭和25年の明色アストリンゼンの広告によると、
「1〜2滴を手の平ですりあわせ、
その湿りで粉化粧の上から軽く叩くと粉化粧がしっとり落ち着き、
生地から白いようなツヤのある美しいお化粧になる」とあります。
仕上げに化粧水か水で湿らせる方法は、この頃の美容書に多く見られるようですが、
これは江戸時代の「都風俗化粧伝」にも登場する日本の伝統的な化粧法であり、
欧米では見られないのだそうです。
「ふんわりフォギーな肌」を好む欧米人に対し、
昔から日本人は「産毛も剃ってぴったりフィットしたベース」を好むのでした。
ファッションのお手本となったのは
日本が敗戦した後、
飢えとの戦いの中で生き抜くためら売春婦になった女達は「パンパン」と蔑まれましたが、
実は彼女達の独特のファッションは、
お洒落に敏感な一般女性達のお手本になったといわれています。
けど、私が思うのは、当時のアメリカ女性が、あのようなファッションだったので、
それをいち早く彼女らが取り入れた、というか、
背景的に取り入れやすかったというか、
はたまた取り入れざるを得なかったというか、
・・何故あのような格好をしたのかはわからないけど、何かそんなような事だと思うんです。
しかし、日本人は本場アメリカをリアルには知らない。
で、元司法大臣婦人が「下品だ」と真面目腐って真似ないように訴えたのです。
けど、 、
フレアースカートに、頭に巻いたスカーフ、
ショルダーバッグ、真っ赤な口紅にマニキュアは華麗。
この「お手本」は、結局、メイクの流行にまで影響します。
昭和22年7月の昼間の銀座での調査によると、
「素顔に真っ赤な口紅だけの者が大多数」。
このようにして、
戦前には化粧の主役は白粉だったのに、主役は口紅へと移行したのでした。
フィルム技術の拙さ、もしくはファンデーション技術の拙さによる不自然なピンク化粧の流行
戦後日本の不自然というか、不思議は「ピンクベースメイク」です。
これは結論からいうと、
決してハリウッドスターにのみ憧れただけとは言えない理由があるようです。
当時のフィルム技術の未熟さにより、「肌色がピンクがかって見えた」ため、
アメリカ映画の白人女優の肌だけでなく、
国産映画の日本人女優の肌も、ピンクがかって見えており、
それが「憧れのスターの肌色」として認知されたゆえの結果なのだと考えられているようです。
やはり、日本人の白肌信仰は、何も白人コンプレックスではなかった様子。
もう一つのピンクベースメイク嗜好の理由として挙げられるのは、
昭和55年以前のファンデーションの品質の悪さにある、という見解のようです。
以前のファンデーションは、時間が経つとクスんでしまっていたのだそうで、
オークル系がクスむと土気色になってしまうゆえ、
避けるがためにピンク系を選択してしまったのではないか、というのです。
昭和25年から35年にかけてはビジネスガールが急増しましたが、
特に彼女らはファンデーションによるクスみには敏感だった様子です。
オフィスの蛍光灯の下でファンデーションがクスむと、
肌が黒ずんで汚れて見えるので、ピンク系を選んでいた可能性が高いようです。
理由は憶測かも知れませんが、この不自然さが長く続いたのだから怖い話です。
何が個性尊重なのだろう、修整強要メイクの勧め
日本での戦後のお化粧については、まだまだ拙く、
何か手引書でもないとどうにもならなかったと考えられますが、
やはり女性誌が参考になったようです。
しかし、おもしろいのは、
戦後の女性誌には、異口同音に
「あなたの個性を生かしましょう」といいながら、
「特徴でもあり欠点でもある面は、
美人型といわれる標準美に近づけるお化粧をしなければならない」とし、
まずは「修正ありき」という、個性もへったくれもない化粧法が掲載されます。
しかも、
「日本人の横顔は外人の横顔と比較すると中低です。
鼻の高い理知的な顔に近づけなくてはなりません」だとよ。
また、別の話しとして、1950年代末の欧米では、
ブリジット・バルドーやオードリー・ヘップバーンなどの
従来の美人型に納まり切らない新種の個性美人が人気だったため、
「個性美人女優に似せた修正メイクで個性美人になりましょう」・・・。
まずは「自分の個性を修正」してから「個性美人に仕立てる」事のどこが
「個性を生かしましょう」なのか、さっぱりわかんない時代。
ワケわからんちん。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※ここからは、「私も知っている懐かしい時代」の
日本での化粧の変換を簡単に綴りたいと思います。
※口紅の色によって、肌色作りが変わるので、
以下、口紅色の移り変わりと共にお話しは続きます。
当時は驚きのカプリソメイク
昭和32年、「バナナボード」を歌う人気歌手、
浜村美智子さんのカプリソメイクが世間を驚かせました。
褐色の白粉に茶色い口紅。
しかも、当時ではまだまだ珍しい、
グリーンやグレーのアイシャドーに、マスカラにアイラインという、フルアイメイク。
昭和20〜30年代のアイメイクは、やっと使ってアイライナー。
アイライナーは昭和30年代後半にはペンシルで太く描く人が増えます。
その他では、せいぜいビューラーとマスカラ。
しかし、依然としてアイシャドーに対しては保守的で、
昼間に使うものではないとされたりしているほどなので、
カプリソメイクは相当のインバクトだったのでしょう。
1000年のこだわり・赤口紅の日本の常識を破ったピンク口紅
古くは日本書紀の時代から、日本では女性は「紅」をさしています。
紅は=「赤」。
この唇に赤色の化粧の風習は、戦後まで継続したから、
およそ1000年以上も赤にこだわり続けていた事になります。
この「唇=紅=赤」の常識を最初に破ったのは、
昭和24年に日本に進出したアメリカのマックスファクター。
(1991年、プロクター・アンド・ギャンブル社に買収されます)
昭和34年に、「ローマン・ピンク」の口紅を売り出したのです。
翌年には、国産メーカーも続々と参入して、ピンク全盛期がやってきました。
淡色口紅流行→必然の+アイメイク→+ブラッシュ流行
昭和35年頃に、
パールピンクやベージュなどの淡い色の口紅が売り出されたため、
(作為的ではあるが)流行ったので、
唇の色みが淡いと目元にアクセントがないのは、いかにもノッペラボウゆえ、
昭和36年には、
資生堂、マックスファクター、コーセー、オペラ、キスミーなどが、
こぞって目元に陰影を作るアイシャドーの宣伝合戦を繰り広げ、
やっと アイシャドーも市民権を得ます。
その後はアイメイクの重要度はどんどん高まり、
ツィギーが来日した昭和42年の頃には、
付け睫毛や描き睫毛、ダブルラインまで行う人が出てきます。
「唇は淡く、目は大きく」なんて、現在に似通っていますね。
淡色口紅流行によって唇から血の気が失せたので、
頬に赤みを補ってバランスを取るべく、これまた必然的に、
昭和38年には、
日常メイクから忘れ去られていた頬紅「ブラッシュ」の新発売も始まりました。
私が幼い頃。
メイクに関してはまるでわかりませんが、 ファッションの方には体感思い出があります。
服飾の仕事をしていた母の周りにはたくさんの華やかなお姉さんが居ました。
オフィスで働くお姉さんが、 母にオリジナルな服を作ってもらいに来るのです。
母の服飾の仕事のルーツは、後で母の妹に聞いたところによると、
「小学生の頃から 姉さんに服を作ってもらっていた」という事です。
もともと好きだったのでしょうね。
母が幼い頃のお手本は中原淳一の塗り絵だった様子。
お姉さんたちの服の中で思い出すのは、
ウエストがキュッと締まった真っ白なフレアーワンピース。
なんでも、クリスマスのダンパ?だかなんだか用のものだと言っていました。
まだまだチビまるこちゃん時代ゆえ、あまりの華麗さに憧れた私は、
同じものを作って欲しがったのですが、
「汚すから」と、アイボリー色で作られて悲しかったです・・・。
お姉ちゃんはサンタクロースの服を着たぬいぐるみをくれたけどね・・・。
お姉さんたちは、いつも華やかでキャアキャア騒いでいました。
私は彼女らのお化粧を見つめ、
彼女らのファッションを見つめながら過ごしたのです。
当時の母の写真を見ると、ジャクリーヌ・オナシス系のファッションでした。
古い洋画を観ているような感じです。
幼い私にはわからなかったけど、カッコイイ女性だったと思います。
(しかし、母は本当には和装が好きでした。自分で作るし、和服の数も膨大でした。)
一つ、幼いながらに私の記憶にあるのは、
いつからか、「化繊」という生地が出回っていたので、
かなりファッションのバリエーションが増えたという点です。
私はいつも生地を見て過ごしていたのでわかるのですが、
「化繊」は「生きた生地(蚕、羊)」に比べると、
バカバカしく軽くてサラサラツルツルしていたりして、扱いにくかったので覚えているのです。
これで生地が安く手に入るようになって、ファッションが発展したのでしょう。
未だ、本質的にはロクな生地ではないけどね。
アレも石油だ。
身嗜み講座
しかしながら、そんな華やかでエキセントリックな流行とは別に、
一般的観念の女性のメイクは「身嗜み」の域を越えない日常メイクであり、
画一化されていました。
当時のいわゆるビジネスガール(今のOL)は、
「職場の花」、「オフィス・ワイフ」「夫獲得の腰掛け」と呼ばれ、
小綺麗で居る事を求められたからでした。
昭和25年から40年の頃は、
高校卒業生を対象にして「社会人としての化粧」を叩き込む、
化粧品メーカーの教育活動が盛んに行われていたそうです。
昭和52年に高校を卒業した私世代でも体験した人が居るようですが、
私の高校には来ませんでした。
面白そうなので楽しみにしていたのに、さすが公立、ケチな高校だ、と思いましたが、
後で考えてみると、進
学者が9,8割(くらいだったと思います)の卒業生には不必要とされたのかも知れません。
結局、総括すると、
昭和25〜45年頃は、ファッションにしてもメイクにしても、
個性化が進みながら、社会化も進んだのだと感じます。
口紅色の好みの移行は流行ファッションから
昭和45年前後、しばらく明るいピンクから一転して、
オレンジ色やベージュなどの口紅が好まれます。
実際は、口紅の色の好みの移行が先ではなく、
当時流行したファッションが、ヒッピースタイル、マキシ丈のスカート、
そしてフォークロアだったので、それに合わせやすかったのだと思われます。
私は母の着せ替え人形でしたが、
当時は子供ながらに大人顔負けのお洒落全開です。
写真を見ると、パンタロンスーツでも、
パンタロンにテーラーJKもありつつ、パンタロンの上に同じ素材のワンピースを着ていたり、
超ミニスカートのワンピース姿が多いです。
11歳になると、今度はマキシ丈、ミディ丈のスカートにロングコートへと変換。
夏服は確かにフォークロアでした。
・・・今より流行まくり?!
このようなスタイルが流行した要因は、
オイルショック、公害問題、ベトナム戦争の反戦運動など、
時代背景のキナ臭さだとする説あり。
ファッションは個性的だけどメイクは修整時代の域だったan・an
そして昭和45年。
「an・an」というファッション雑誌が創刊されますが、
これは日本のモード界のエポックメイキングなものとして語られています。
私も記憶では、
私が最もマセガキだった?小学4年生から中学3年生まで住んでいた家で
毎号読んでいました。
母が服飾関係の仕事をしていたので、ファッション雑誌がたくさんあったのです。
中でan・anは子供心にも独特でした。
いわゆるクチュールブランドのエレガントな服装を見慣れていただけに、
(母の影響で子供のクセに、ヤケに詳しかったのだ。)
カッコイイというイメージもありつつ、あまりのサイケデリックさに笑った事もあります。
しかし、子供には気付かぬ点があります。
an・anは、ファッションだけは個性が強かったのですが、
メイクにはオリジナリティがなく、「修正メイク」の域を出ていなかったのだそうです。
それは、
すでに付け睫毛が廃れていたので、
アイメイク重点主義から顔全体の立体感を表現する方向でした。
「ファンデーションの2〜3色使い、
ノーズシャドー、ハイライト、チーク、アイシャドーの2色使い」でグラデーションする、
という相当濃い化粧でした。
ついでに眉は極細です。恐い・・・。
修正メイクを追放してエセナチュラルメイクを提案したJJ
an・anと全く反対のメイクを提案して来たのが、昭和50年6月創刊の「JJ」です。
「修正化粧」を追放し、「ナチュラルメイク」を提唱します。
まずは、
「ハイライトやシャドーをたっぷりきかせたゴワゴワメイクにさようなら」
みたいな内容でハイライトを追放。
その後、
「YELLOW IS BEAUTFUL」として日本人のチャームポイントを生かす事を提唱し、
ピンク系ファンデーションを追放。
実際に昭和52年のファンデーションの売り上げは、
前年比で「オークル系1,8倍と急増」し、ピンク系は激減したそうで。
JJは引き続き、
濃いアイライン、ノーズシャドー、濃いブラッシュを次々と追放し、
過剰なメイク用品を全て剥ぎ取って行く事を提唱します。
つまり、過剰なアイテムを追放する事がナチュラル、
みたいな意識を持たせたわけです。
しかし、「過剰なメイク用品」が剥ぎ取られた後に残ったメイクはベッタリしていて、
まるでナチュラルではなかったんですけどね?
この辺りで20代だった人が、
現在でも、やたらベッタリメイクのままな人が居るのは、
その後進化しなかった、これの名残り?っぽい・・・・。
日本人にはどうにも似合わないのにサーファーメイク
そして、昭和53年頃から、「下品」と罵られたにも関わらず、
パールブルーのアイシャドーとパールピンクの口紅のサーファーメイクが流行ります。
カジュアル路線に対抗するエレガント路線はニュートラファッションですが、
この場合もメイクはアイシャドーがブラウンになる程度で、
基本はサーファーメイク。
この、どうにも黄色肌に似合わないヘンテコリンなメイクは、
アメリカのテレビドラマ「チャーリーズ・エンジェル」で人気だった
ファラ・フォーセットのメイクを真似たのがきっかけだったようです。
私もやってました。
サーファーだったからというのもありますが、
通常は大学入学当時はニュートラで通いました。フフ。
バッグの流行は
ヴィトンのエアーバッグやクレージュの弁当型バッグ、ディオールのジャガード地のバッグ。
私は嫌いでしたが、「ミハマ」とかいうヘンテコリンなブランドも流行っていた気がします。
あ。テクノファッションも流行りました。
私も好きで白黒格子のミナスカートに白いナイロンジャケットなんか着て、
キッチュなメイクを楽しみました。
しかしこれらも昭和58年には廃ります。
生意気女とぶりっ子女の流行・ボウボウ眉のはじまりは女の意志の表れ?
この後に流行ったファッションはDCブランド。
あるいは、
昭和58年のピンクハウス流行に伴っての「ぶりっ子メイク」と「ぶりっ子ヘア」。
サーファーやニュートラのような「制服」的なファッションではく、
それこそ、人それぞれの自由に、様々なファッションが流行った時代でもあります。
私も何を着ていたのだか。
この時期は、なんでもかんでも着ていました。
なんとなく覚えているのは、「BIGI」グループ。
言わば、それまでのブランドバッグに似合わない服でしたよ。
昭和60年には「男に媚びない意思ある知性」として、
生やしっ放しの太眉流行は平成2年頃まで続きます。
私も堂々、ボウボウ眉でしたよ。今でもだがね(笑)。
ラクチンでした〜。
マットな肌とクチュールカラーの口紅
しかし、昭和60年代に入ってからは、
化粧のトレンドセッターは昭和60年頃からのお嬢様ブームと共に指示された
「25ans」に以降します。
上流志向から生まれた流行は、なんと、「マットな肌とクチュールカラーの口紅」。
昭和の終わりから平成にかけては、
「いかにもオシロイ塗りました肌」が好まれ、
「頬が赤いのは庶民の子」として頬紅は嫌われたのです。
クチュールカラーの口紅とは、青みの強いフューシャピンクの事で、
「フクシア」の花の色からネーミングされています。
代表色は「サンローランの19番」と「ディオールの475番」。
平成4年くらいまで売り上げトップの快挙です。
後にも先にも、特定の品番だけが突起して売れたのは、これだけ。
日本の化粧品業界史上の大ヒット商品は、外資系メーカーでした。
マドンナの赤口紅
一方で、昭和62年から平成元年まで流行った赤口紅はマドンナの影響。
マドンナ来日の昭和62年にはシャネルの真紅70番がヒット。
資生堂の昭和63年のプロモーションによって赤は身近になり、
全国的に流行しました。
時はバブルの絶頂期です。
バブル期のお話は、「有美のスキンケア歴」1989〜1992年に記載。
実は日本古来のノッペリメイクに似ていないだろうか
しかし、冷静に見てみると、この時代のメイクは
「マットに塗り込めた肌にノー頬紅、ノーハイライト、ノーシェーディング」、
加えて
「ボウボウ眉にドピンクか赤の口紅」。
これって、もしかして、日本古来のノッペリ白粉メイクに似てはいないか?
このようなメイクを持ってして、
「過剰なメイク用品を止めてナチュラルメイクに」として
ナチュラルメイク観をアピールしたマスコミにも笑えます。
これは「ナチュラル」という言葉に弱い事を知っていての戦略でもあったそうで、
後に私達はスキンケア品の「ナチュラル」に騙されるんですけどね。
なかなか廃れないフューシャピンクは肌のアラ隠し
そして背景はユダヤ人の大いなる世界転がし的策略による、
バブル崩壊の時代に突入します。
昭和60年の雇用機会均等法が軌道に乗って平成に入ると、
キャリアウーマン時代になります。
知的な女性をターゲットにするべく創刊された雑誌では、
フューシャピンク口紅攻撃をはじめますが、
男ウケもさる事ながら、
オフィスの蛍光灯の下でも肌がクスんで見えず、
視線が唇に集中するために、
肌のアラが目立たないフューシャピンク口紅は廃れません。
かつて戦後から昭和40年頃のビジネスガールのピンク系のファンデーションと同じです。
スーパーモテルブームと海外メイクアップアーティストによるベージュ口紅
〜強いアイメイクによる「目力」と頬紅の復活
やっと平成5年頃に「知的」をキーワードにようやく口紅の色は淡くなります。
色はどんどん淡くなり、
平成10年頃にはベージュが一番人気となります。
その背景は「知的な」ではなく、スーパーモデルブームがありました。
平成8〜9年は、海外のメイクアップアーティストが注目された頃でもあり、
モードメイクの全盛期でもあり、彼らの提案する立体メイクは「小顔」に見えるので、
小顔ブームにも乗りました。
けど、フューシャピンクほどの大ヒットには繋がりません。
ベージュの口紅は、肌が陶器のように綺麗でないと映えないし、
顔色をクスんで見せたから、難しかったのだと思います。
それでもベージュではなくても、口紅の色は完全に淡色中心になっていきます。
そして淡色は映えににくいので、唇を光らせるグロスが大流行します。
グロスの人気は現在にも続きます。
さて、昭和40年頃にも淡い色の口紅が流行りましたが、またも
「口紅が淡くなったら頬紅が復活し、アイメイクが濃くなり」ました。
ここでまた、顔全体のメイクバランスが見直されはじめたのです。
眉はキリッと整えられ、病んだ人に見えないように頬紅必須。
アイメイクはパール入りシャドーにマスカラ必須で平成14年には「目力」という造語ができ、
ここ辺りから、メイクの主体は完全に口から目へと移行してしまいました。
アラ隠しができないから「肌力」を求められはじめた
ここで大問題が発生します。
濃い口紅ならば、どんな肌もそこそこ綺麗に見えていたし、
なんたってそれまではパウダリーファンデーションをノッペリとゴワゴワに厚塗りしていたものが、
陰影重視となって、透明感のある肌作りが急務となり、
「ツヤあり薄付きリキッドタイプ」が主流になったため、
今までのように不自然なアラ隠しができません。
なんと、結果的に「淡色口紅流行」が行き着いた先には、
肌への危機意識を煽った、というもの。
そして いよいよ古代から続いた「粉でアラを隠す」美白から、
スキンケア重視への意識が高まるのです。
やっと人々は、土台が汚かったら、どんなテクニックをもってしても、
メイクが映えない事を知ってしまったのです。
本当は、求めるのは白い肌ではなくアラのない均質な肌
しかし、私が冒頭で話したように、私だけでなく、多分にほとんどの人が望んでいるのは、
美白、つまり白い肌そのものではないのです。
白いだけでは駄目で、化粧映えするアラのない肌を求めるゆえ、
「角質が滑らかな」
「毛穴のない」
「透明感のある」、
つまり、「なんの汚点もない、清らかな肌」を求めていると感じます。
ナチュラルナチュラルと言いながら、
確かにファンデーションは薄くなってナチュラルっぽくはなったけど、
実は生肌には、お人形のような「不自然なほどに均質な肌」を求めるのです。
結局、日本人が求めるのは清さでは?
実際は、それらの肌自体への願望は、
「白粉塗りたくりの和装メイク」
「戦後のピンク系ファンデーションメイク」
「バブル期のマットメイク」
と同じ「均したような肌」であり、
「肌の色ムラなんて許せない」という点では、皆、同じなんです。
ここ数年の広告写真は、
肌のアラというアラをコンピューターで消す技術を駆使していますが、
日本人は特に過剰にやり過ぎる傾向にあると笑われているそう。
最近は画像処理力に優れたソフトが著しい進化を遂げているゆえ、
毛穴もシミもニキビはもちろん、タルミさえ消せるのです。
私も修正前の某女優の写真を見てから、出来上がったポスターを見てブッ飛びました。
一つの汚点もない肌は、まるでサイボーグなのですが、
修正前に比べると雲泥の差であり、綺麗だと感じるのも本音です。
うっとりしてしまいます。
総括すると、日本人の肌への望みは「白さ」ではなく「清さ」だという事になるようです。
私が求めているのも、究極は「清潔」であるからには、それかも知れません。
CGアニメのヒロインのようなサイバーな肌は決してナチュラルではなく、
完全なる人工作り。
よって、「ナチュラル」という言葉を「作為的ナチュラル」と笑って毛嫌いする私と、
きちんと繋がったというわけで、スッキリした次第です。
踊らされないように地に足をつけるべき時です
戦後に関しては、メイクの流行は化粧品業界やマスコミが作り上げたも同然だったようですが、
さてはて、
「淡色口紅」から始まった「美白信仰」ならぬ「美肌信仰」による過剰なスキンケア意識の向上も、
スキンケア品売り上げへの化粧品業界の陰謀は大いにあり。
ま、企業の最目的は利益なのてですから、それは当たり前。
けど、
もともとメイクより土台スキンケア重視の私としては、
むやみやたらと躍らされないように、
今後とも、何が本当で何がインチキかを、つくづく見据えていきたいと感じました。
情報って、洗脳にも繋がるわけで、これだけ時代を動かせる力を持つのです。
「売れたらエエねん」は、メイク品なら遊びで許容できるけど、
スキンケア品は人体最大の臓器である皮膚問題だから、真剣に考えていくべきだと考えています。
大変、長くなりましたが、ありがとうございました。
けど私自身は興味が尽きないので、次はまた、この内容をベースに、
「日本での洗浄の歴史」「日本での香水の歴史」「日本でのスキンケアの歴史」など、
追って掲載してみたいと思いました。
参考資料/
「ビューティサイエンス(源流社)」「日本の化粧文化(資生堂企業資料館)」
「よくわかる化粧品業界(日本実業出版社)」
|