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お天気は兵庫県南部の予報です。かなりの度合いではずれてますのであしからず。
2005年12月10日(土)

ゼラニウムの香り

精油の迷鑑に書きましたが、
現在入手できるほとんどのゼラニウムは
「ペラルコニウム(フウロクソウ属)」のPelargonium graveolensであり、
本物の
Pelargonium odoratissimumの効能は含有していないという事です。
しかし、 ヴィアロームのブルボンゼラニウムという名で売られている方は
「Pelargonium odrantissimum」
だという事に気付いていたので購入してみました。

  通常、
  「ブルボンゼラニウム」と俗名が付いていたら「Pelargonium roseum」なんですけど、
  何故かヴィアロームでは
  「Pelargonium roseum」には「ローズゼラニウム」と俗名が付いています。
  ワケわからん。こうなると、本当に「学名」を見ることは大切です。

現在手元にあるゼラニウムの精油は
「Pelargonium graveolens」である「ジュリーク」と「マギーティスランド」だけなのですが、
「Pelargonium odrantissimum」と、どれほどの差があるか、
繊細ではない私は、かなり苦心してクンクンと嗅ぎ分けてみました。

ボトルから嗅いでも似ているし、困ったな、と思って、
左手の甲にPelargonium odrantissimumを2滴、
右手の甲にPelargonium graveolensを2滴乗せて、
長らくクンクンしてみて・・・・
イヤン・・・似てる・・・。
で、しばらく放置して・・・
Pelargonium odrantissimumの方が、後から円みが放たれて、
より「ローズ的」かも知れないと思いましたが、確信はなく、頼りない事で。

香りに繊細でないのは、精油を扱うに当たって損ですな〜。

ヴィアロームブレンドの独特な香りの正体ってなんだろう・・・

ところで、
ヴィアロームの「ローズセラム」というオイルを夏頃に購入していましたが、
実はマイブレンドに夢中になっていて忘れ去られた上に、
劣化が怖くて慌てて途中で使ったら、ボトルをひっくり返して半分ほどもこぼしちゃった。
で、少々の残りをまた引き出しの隅に置いていて、
思い出したように使ってみたら、
ヴーーーん・・・強い独特の香りは相変らずです。

嫌いとかではないけど、ヴィアロームの製品って、
どれもこれも、どうしてあんなに独特な香りがするのでしょうか。
ヴェルトゥーとか、ウッラ・マイヤーグレースとか、プラナロムとか、
いろいろブレンドオイルは使ってみているけれど、
それぞれに独特さはあるものの、円みを帯びていてなんとなく似たり寄ったりな中、
ヴィアロームだけは説明がつかない摩訶不思議な香りを放ちます。
きついです。
ギンギン怒っているみたいな種類。

質も独特です。
なんとなく「重め」でマッタリしているのです。
これは、ヴィアロームでいくつかのベースオイルを購入してみて、
予想通りではあったけど、つくづく納得しました。
ベースオイルの質自体が「濃い」。
濃縮してます!という感じ。
特に小麦胚芽オイルにはビックリしました。
だからあのような質なのですね。

では、香りは?
精油も全て独特なのか?と想像してしまいますね。
けど、全てをそろえたわけではないし、よくわからない。

ただ、試しに
「ローズウッド・ローズマリー・ローズ・ラベンダー」というポピュラーなブレンドで、
ブランドを統一して作ってみたら、
確かにフィトサンアローム、プラナロム、ロバートティスランドらは円やかで、
ヴィアロームはキンキンした感じはしました。
(ローズマリーについてはヴィアロームとロバートは不明につき、他はシネオールで統一しました)。

だからって・・?いや、何もないんですけどね・・・。
これをしたいばかりに、何が腹立ったって、ヴィアロームのローズが異様に高価だったって事さ。

各ローズオットーは、
「プラナロム5ML \25,200」「フィトサンアローム5ML \27,825」
「ロパートティスランド2ML \13,000」。
ヴィアロームは1MLで\11,000・・・・。
香りを試したりしていたら、もうなくなったわい・・・ホコリくらいしか入ってない・・・。
高いおもちゃだ・・・。

    
さて、先頃、コスメとは全く掛け離れた、
父の第二次世界大戦というテーマで書かせて頂きましたが、
たくさんの反響ありがとうござました。
何通ものメールを頂き、恐縮しております。

思うに、すでに戦後60年が経過しており、もう生の戦争体験を語れる方も希少です。
意外にも、子や孫の私らに語らない方もいらっしゃるようですが、
語らない理由は
「どうせちゃんと聞いてはくれない。古い話しと馬鹿にされる」
あるいは、
「あまりの体験だから自身が辛くて語れない」など、いろいろあるようです。

実際、父のような末端の体験ではなく、
特攻隊や回天などの訓練を施した者などは、
「戦争で死ねなかった者の後ろめたさや悔恨の念がいつまでもつきまとう」から、
「書き残したいという焼けるような想いを抱きつつ、
 書けば書くほどに、
 戦争を知らない若い世代からは、更に乖離していくような気がして書けない」
というお話しを聞いた事があります。
それをあえて聞き出すような厳しい事をする必要はないけれど、
前者だった場合、こちらから進んで少し耳を傾けてみても良いと思うのです。
語った人らは心にある澱を浄化したかのようなお顔をなさいます。

私の場合、聞き出した、いや、「聞こうとした動機」は全く違う方向からのもので、
母が亡くなったゆえに
日常の話し相手が居なくなった父の相手をし出したゆえの成り行きでした。
チラチラと断片的に聞いていた話しを、再度話しを聞いて、
あのように総まとめしたきっかけの元は、そんなものです。
もしかしたら母が生きていたら、あのように真剣には聞いていなかったかも。
これまた、私がよく使う「必然の法則」でもあるのではないかと思います。

また、父は年を取って来ましたので、昔を細部に渡って思い出させる事で、
脳が活性し、ボケ予防になるわ、ってな動機もありましたが、
実際は日常多忙なこちらとしては、
南国タイム的感覚の老人の語りを聞いてあげるのは、ある意味、過酷ですよね。
けど、昭和の初期から生きて来た人の話しは、
私たちが手にできない昭和激動時代の壮絶な体験が多いので、
聞き手であるこちらにも興味のある内容から聞き出したなら、
聞いてあげる事にはなんの辛さもなく、むしろ面白いのです。
話し手というのは、聞き手が興味を持ち、
聞き手が楽しめなければ話していてもつまらないのだから、
こちらも興味のある事を選んで、どんどん聞き出すが良いと思います。
それらは何も、戦争の話しばかりではなく、たくさんの話しがあるはずです。


<恐怖の脱脂粉乳〜勝利国の陰謀>

前置きが長くなりましたが、今日は調子に乗って、私自身の昭和体験談を。
このテーマは本当にフイに思い付いただけだったにも関わらず、
突き詰めれば父の戦争から戦後60年経っても
日本が敗戦国である色合いが、実はまだ残されており、
また、それこそが勝国アメリカが世代交代を待って企てた
本当の意味での占領国への陰謀だというお話に繋がる
とは、
思いもしなかったんですけどね、
たかだか脱脂粉乳のお話しは私の中で展開しました。

恐怖の脱脂粉乳

私が最初に入学した小学校には、給食というものがありませんでした。
何故だったのかはわかりません。
場所としては、無茶苦茶田舎でもなく、単なる大阪府下の郊外の住宅地。
ただ、新しい借家と建売住宅と地主みたいな農家が混在していました。
畑や田んぼもあって、でも、牛や鶏は見ない程度の小さな「町」で、
蓮華草が咲き乱れた田んぼで遊んだ記憶があります。
言わば新規開発前の、のどかな町という感じ。
いわゆる、主要都市へは電車で20分程度だったかと思います。

学校の人数は詳しくは覚えていないけど、
1クラス45人くらいで1学年で6クラスはありました。
給食がないので毎日おいしいお弁当を持って通学しました。
けど、給食がないのに、毎日、牛乳だけは配られていました。
いかるが牛乳か何か。
家で配達してもらっている雪印とか、有名な森永ではなかったです。

小学校4年の新学期から、転校しました。
そこはやはり簡単に言うと、大阪府下の郊外の住宅地。
大きな団地もなく、まだマンションもなく、
建て売り一戸建てや借家やアパートがある風景。
少し離れた所には一戸建てのいわゆる「新興住宅」が密集していました。
真新しい綺麗に並んだ家々から離れると、林があったり。

これまた畑も田んぼもありました。
トカゲを見つけたらシッポを踏んで千切ったし、
ナメクジを見つけると塩をかけて遊びました(笑)。
今は全く見ませんので、なつかしいです。

私がそこに引っ越した年に、バスで数分の所にダイエーが建ち、
ミスタードーナツができて初めて父に買ってもらって食べた時、
「この世の中に、こんなにも旨いモノがあるなんて!」と衝撃を受けました。
ホントにホント。
私がそれまでに食べた事のあるドーナツって、
あんなにフワフワしてなくて、カチカチで色ももっと黒っぽかったはずだよ。

話しはズレたけど、時は昭和44年。
翌年に大阪万国博覧会開催、つまり、高度成長期真っ只中です。

私が転校した小学校には給食がありました。
これまたウロ覚えだけど、1クラス45人ほどで、1学年3クラスだけ。
前の学校より人数は少なかったです。
給食がある、ない、は、人数のせいではなくて、
何か行政の事情かしら、と子供心に思ったなり。

さて。小学4年生になっての初めての給食体験です。
ええ〜っっ!
少人数というか、父の一番下の弟や、母の妹とも同居した事はあっても、
ホントに少人数家族しか体験のない私の目に飛び込んで来た「鍋」は、超巨大。
いや、私には鍋には見えなかったもんね。
私の目には、失礼だけど、どう見ても鍋というより、鉄のゴミバケツさ。

中には、なんだかわからんゲロゲロが入ってた!
こんなん書いたら顰蹙買いそうですが、私は怖かったです。
「豚の餌やあるまいし!」とひっくり返りそうになったのさ。
いや・・どれだけ顰蹙を買おうが、小学4年にもなって初めて見たらそんなもんなんだよ。

何もかもが目新しく新鮮な小学1年から見ていたら、
あまり深く考えないで受け入れられるものも、
4年生にもなるとね、ひっくり返りそうにもなるんすよ。

生まれて初めて見るアルマイトのトレイにアルマイトの食器をいくつか乗せて、
皆で並んでそれぞれを給食当番の人に注いでもらいます。
給食当番の人は、わざわざ白いヘンな割烹着みたいなのを来て、
ワケわからんコック帽もどきにマスク姿です。  

後に自分も生まれて初めて給食当番をするのだが、
この割烹着もどきの一式は、当番が終わった週末に、
各自家庭で洗濯してくる事になってるっちゅうのも笑えましたね。

私はアルマイトの食器は初めて見ました。
可愛いやつじゃないんですよ。
金色がハゲたみたいな色で、
新しいやつはツヤツヤしていて、
古いやつは、なんでああいう痛み方するんか今でもわからないけど、
砂利道で転がしたみたいに凸凹になっていました。
私は即座に映画で見た刑務所の食事を思い出しましたさ。
これから始まる恐怖の祭典から逃げられないって事は、囚人には違いない。

さて、給食が並んでみたら、一つ不思議なものがありました。
白い液体が入っているのですけど、
口元に持って来て、そっと匂ってみると牛乳ではないんだな。
なんかヘンな匂い。
隣の席の子に、「これ、なぁに?」と尋ねると、
「脱脂粉乳やん。知らんの?」
「私、前の学校は給食がなかってん」と答えると不思議そうな顔をしていました。

なんだか衝撃的にマズそうなので、放置したのですが、これがいけなかった。
後に体験でわかったのですが、
この脱脂粉乳っちゅうやつは、まだしも温かい内に一気に飲んだ方がマシなのです。
冷めるとね、下の方に恐怖のドロドロが溜まるから、ますます飲めた代物ではない。

しかし、給食っちゅうのは残してはいけないらしく、
食べるのが遅いと、すでに食べ終わった皆がワイワイ遊んでいる中で、
いつまでも冷めたクソまずいブツ達に囲まれて、
惨めに小汚い様子で食べるハメとなり、なんともまぁ、恥ずかしい。
給食もサッサと食べられないで、エラソウな事言えないぜ、ってな話し。

実際、そういう奴は卒業するまで必ず存在していました。

時間が経つごとにそれに気付いた私は格闘したましたよ、
脱脂粉乳だけじゃないよ、
パサパサ過ぎるまずいパンと豚の餌みたいなゲロおかずとも。
  こんな風に書く私を責めてもよいです。本音主義です。
仕方がないから、覚悟を決めて、
これまた出がらしみたいなまずいお茶で飲み込んだのさ。

しかし脱脂粉乳は、それ自体を飲まなきゃいけないからね、
一気飲み作戦に出たけど、結局喉から鳴咽が出て逆流しそうになるのだわ。
なんとかかんとか飲んだけど、翌日から昼前には早退したいと思ったね。

家で母に給食の話しをすると、
「へぇぇ。今でも脱脂粉乳なんて出るんだ」と大笑いされ、
その時、パンのまずさはわかってもらえなかったけど
  (当時のパンのまずさの理由は下記へ)
後に熱で学校を休んだ時、
友達が「ワラバン紙」っちゅうボロい紙にパンを包んで持って来てくれた時、
たいがいいらぬお節介だと思ったが(休んだ子にはパンを持って行く決まりだった)、
当然まずいから放置していたら、
母がチョロっと契ってつまみ、
眉間に皺を寄せて「こりゃダメだわ。捨てなさい」と言った!
まかり間違っても、母は言ってはいけない言葉なハズ。ガハハハハ。
私の母という人は、けっこう「厳格」な方の性格でしたが、
どこにライン引きがあるのか、お茶目な部分もあり、
正直な人でもあったからして、
「食べ物を粗末にしてはいけません」とは言えなかったのか?
私はもちろん、母の言い草は道徳には反するが、非常に人間らしいと笑いました。

私は次第に給食には慣れました。
デカい鍋もアルマイトの食器も見慣れました。
中にはおいしいおかずもあるにはありました。
今は食べなくなったから逆に贅沢なメニューだと感じる思い出深いおかずは、
「鯨」だろう。
鯨の切り身を千切りの土生姜と共に甘辛く煮付けたもの。

まぁ、私世代としては、ヤケに古臭い給食を食べさせられていたようです。
私は、すでにおいしい物を食べられる時代に生きながら、
「戦後の名残のような給食」の最後辺りの犠牲者であるようです。
資料によると、「脱脂粉乳は1970年頃に給食から消えた」とあったりします。

脱脂粉乳については、同世代の人に尋ねると、
土地土地で答えはテンでバラバラです。
都会ではすでに牛乳だった学校もあれば、
田舎では私よりずんと年上でも「牛が居たから牛の乳だったよ」という人も居ます。

息子の世代になると、
給食はかなり改善されておいしいものになっていたので驚きました。

本当の占領は世代超えを予測

  学校給食自体は、明治22年から存在していたらしい。
  山形県鶴岡町私立忠愛小学校で貧困児童を対象にして、
  昼食を与えたのが始まりとか。
  メニューは当然、おにぎり・焼き魚・漬け物と和食。

さて、それはそれとして、
脱脂粉乳というのは、戦後に食糧不足で栄養失調を起こしかねない状況下、
優しいアメリカの人達が提供してくれた、事になっている。

  はじめは、ララ(アジア救済連盟)というアメリカの団体から贈られた物資が、
  栄養に窮していた学童にと提供されたらしい。

実はアメリカでは、脱脂粉乳は、真実、豚の餌だった。
アメリカには、
豚が飼料を食べている絵と日本の子供たちが脱脂粉乳を飲んでいる絵が
並んだ風刺画があったとか。

脱脂粉乳とは、
「 生乳、牛乳又は特別牛乳の乳脂肪分を除去したものから、
  ほとんどすべての水分を除去し、粉末状にしたもの」。
「スキムミルク」ともいうそうだ。
今はあるあるだかスパスパだかで
「ダイエット飲料」とか言ったから流行っているかもだけど、
今のものは、比べ物にならないくらい飲みやすい味らしい。
私は恐怖感があるから絶対、飲めない。

「粉乳」という理由は、ただ、運搬の際に運びやすいから粉末にしたのだそうだ。

昭和24年には、
ユニセフ(国際連合児童基金)から脱脂粉乳の寄贈を受けて
ユニセフ給食開始。
「甘いおいしいミルクさん。私はあなたが大好きよ。
 毎日毎日いただいて、こんなに大きくなりました。ユニセフ給食ありがとう」、
なんて歌があったとか。
何が「甘くておいしい」だよ・・・。
当時の給食を食べていた人も皆、「クソまずくてね」と言うんだけど、
「だから」、こういう歌で飲ませていたのが本当らしい。

ま、実際、栄養失調の子供は激減したらしい。
多分にアメリカでは、
「日本の子供って、俺らが豚の餌にしたり、廃棄するもん食ってんだって」
という雑談はあっただろうよ。

昭和25年には、アメリカ寄贈の小麦粉により、
8大都市の小学生児童に対し、はじめて完全給食を開始。
パンに使われた小麦粉は、アメリカでは期限切れで廃棄するものだった。

昭和26年からは、無償ではなくなります。
つまり、アメリカでは「いらない廃棄物」を、
はじめは親切に無償で提供し、後は占領下にある日本政府に売っていたのさ。

昭和27年には、
小麦粉に対する半額国庫補助が開始され、
4月から、全国すべての小学校を対象に完全給食を実施。

アメリカは戦中や終戦直後に小麦を大増産して、
世界各国に輸出して、食糧問題に大きく貢献すると共に儲けていたのだけど、
戦後しばらくして各国が復興してくると、小麦が余るようになったらしい。
そこで、日本人の伝統的な主食を給食をもってして、パンに変えてしまおうとした!
のが本当。

つまり、日本人が小麦を輸入するようになり、
アメリカの小麦の余剰在庫が片付き、
その後も日本がアメリカから小麦を輸入するようになった。

アメリカが作った「農業貿易促進援助法」は、
通称「余剰農産物処理法」と呼ばれ、
この法律の成立直後に日本で「学校給食法」が作られた。

※「完全給食」 とは、「全員が給食」という意味ではなく、
「給食内容がパン(これに順ずる小麦粉食品等を含む)と、
  ミルク及びおかずである給食をいう」と明記されたものなのだ。

また、この頃、日本で権威のある学者が、バカな話し、
「米を食べるとバカになり、短命になる」だとか言いはじめて、
盛んにパン食を進めたらしい。なんじゃーーーそりゃ。
アメリカから袖の下もらったか?

そして、何がすごいって、
「長いものには巻かれろ」という処世術があったのは素直で良いけれど、
戦後の日本は急速にアメリカナイズされ、
そのアメリカナイズが未だ引き続き残ったというか、
いやいや残ったのではなく、日本はそのまま完全にアメリカでもあるのに、
皆はお気づきだろうか?

どこの国だって、観光スポットでなくても、
たいていのショップでは「その国の音楽」がかかっているし、
「そのお国の楽器」を持って愛する人は多い。
日本で三味線や琴を持つ人はいったい、何人居るのだろう。
いや、奏でられる人なんてどれだけ少ないか・・・。
アメリカンポップス大好き国なのだ。

いわば、インテリアだって、どこの国でも、
そのお国柄独特の伝統が見られる。
日本では、どこもポップスがかかっているし、
インテリアも日本らしさなんて片鱗もないぞ。
音楽やインテリアで日本的なのは京都の観光スポットだけやおへんか。
せいぜい浅草がそれっぽいか。

着物姿の人だって、いつの間にか全然見なくなったじゃないか。
私が小学生、中学生の頃は、なんでもない日でも、
着物に羽織姿の女性はツラホラ見かけたし、
私の母は、残された和ダンス3棹もある着物には参ったほど、
非常に着物が好きだったので、私は着物姿の母をよく見た記憶があるが、
今はテンで見ない。
着物は「特別」になってしまったのだろう。
今じゃ、お正月だって見やしない。
  成人式は別の話しだもんね。

食生活だって、気が付けばアメリカナイズもいいとこ。
今でこそ、飽和脂肪酸を悪者にしているけれど、
現代日本人は、戦前とは全く苦食生活が変わり、
乳製品もパンにもハンバーガーにもフライドチキンにもピザにも、
先出のドーナツ系スィーツにも慣れ親しんでいる。
ポテトチップだってそうだ。

これは何故か?
いくらなんでも昭和一桁生まれのハンバーガー好きは少ないが、
その子供や孫が食すから、付き合いで食べられるんだね。
なら、なんでその子供や孫の食生活が欧米化したか?
要するに、給食だ。
給食とは、つまり和食から洋食に慣れさせる原点だったのだ。

初めて給食で洋食を食べた世代は大人になっても違和感なく洋食を食べる。
そしてその子供に食べさせる。
朝はパン食なんて家庭も多いが、
私の父ですらトーストとコーヒーが大好きで、朝は長年アメリカナイズじじぃだ。

要するに、給食用でない小麦粉も、日本は永久に小麦粉を輸入するのだ。
ポテチには、「アイダホポテト」なんて書いているじゃないか。
牛肉だってそうだ(今は問題があってゴチャっているが)。

日本では米が余っちまって私が小学校を卒業した数年後から
ポチボチと「ごはん給食日」ができたけど、
各家庭では主食がパンの時もあれば、パスタなんて時ができたのは、
しっかり占領国だからなのさ。

アメリカナイズされていないものなんて・・・
衣料品でも生活道具でも探す方が苦労するじゃないかいな〜。
私は今の今、占領下の者であるという事を痛感している・・・。

2005年12月9日(金)
イプサの判定でビックリ

一度やってみたかったイプサのオプティマムバランスアイ。
まぁ、そう強い興味はなかったのだけど、
空が低く灰色になって来るとテンション下がるし、
いよいよ年末も押し迫り、
年始にかけてのスケジュール帳を見ただけでオェーッなんてなっちゃうから、気晴らし。
そんな程度の動機だけど、これ、想像よりなかなか発見になったかも。

私は自分の目は好きではない。
私の目は高校生の時、
金魚掬いをしながら「みみや、みみを捕まえた」と、
デメキンを自慢気に見せた奴が居たなりに、やっぱりデカい。
だから、「縦」は充分にあるらしい。

しかし、初めて「なるほど」と唸ったのは、
「目幅」が狭く、「内側寄り」なのだそうだ。
なんか、すごく納得した。
なんかヘンだと思っていたけど、誰も言ってくれないし、ホントに目からウロコ。

つまり、丸くコロンとしていて、顔の中心に片寄っているというわけだ。
顔が細長いからわかりにくいけど、密かにムサ苦しい求心顔なのだね。

つまり、このイプサライザーによると、
「目尻側に濃いアイカラーを入れたり、アイラインを引き伸ばす」とバランスが取れるという事だ。
まぁ、どこまでも伸ばしたら不自然きわまりないだろうがね。

そして、瞼の凹み。
言わば、「ダブルライン」というアイメイクの手法があるが、
私には生れつきダブルラインの位置に凹みがあるらしい。
「これ、年取って出た凹みじゃないの?疲れると目が落ち窪むみたいな」と言うと、
それとは全く違う凹みで、白人に多く日本人に少ない「掘り」なのだそうだ。

「私はこの凹みが嫌いで、影の出る濃いアイカラーも嫌いなんだよね。
あえて瞼が腫れぼったく見えるようにしてるくらい」と言うと、
ならば、この凹みに特にハイライトを強調して入れたら良いらしい。
だからまぁ、私が今まで瞼を腫れぼったくしようと、
あえて瞼にパステルな色やパール感の強いアイカラーを使っていたのは、
「 好み」としては正解だったらしい。

後は、「目幅」を長く見せるように工夫するとバランスが取れるそうだ。
アイカラーはXV3、
凹み対策に練りのハイライト「ホワイトプロテクトフラッシュカラースティック」をプラス。
このハイライトは、顔の他の部分にも使えます。
しかし、これ自体は、「基本」を守れば、別にここのアイカラーでなくても良いと思う。
たいした個性はない。

ついでに久しぶりにチークやハイライト、口紅の色を判定してもらったら、
やはり何年か前とは違う色が出てきた。
そうそう、人は変化するもんね。
ババァになって、トーンダウンしてるのだろうよ。
しかし!肌色は以前より白くなっている事が判明。
  今回出た中で選ばれたハイライトカラーはH11、チークはH35、口紅はH06。
  (他もあるが、中ではこれらがシックリ来た)。

日焼け止め嫌いで紫外線を浴びるのが好きで、
美白美容は以前の日焼けの後遺症である黄ぐすみから脱出したと思えて以来、
全く興味が湧かずに、
たまに使っても美白美容の掟である「継続使用」を全く無視している、
まるでおざなりなこの数年で肌色がブライトアップされているとは?
思うに、美白美容系の化粧品なんて関係ないのかも。
第一、本来の自分以上に白くなんかなりゃしないのだし。
だから私は断言しよう。
ブライトニングは、「潤い」つまり「保湿」ができていれば手に入る
自分より白くはならないけど、
保湿が成されていたら、明らかにクスミからは回避するから、
結果的に肌色の透明度が増すからだ。
そして、思い起こせば、「効いた気がした美白化粧品」は、
全てが「保湿力」を兼ねているか、
あるいは保湿力の強いものと併用した時に効果を感じたはず。
後、「代謝」
これが著しく良いらしい。
だから真っ黒肌の片鱗と焼けた度合いで残るはずほどのシミがないそうだ。

要するに、肌色のブライトニングは「保湿&代謝up」という事になる。
これが長くマトモに美白美容系を放棄していた私の結論

しかしなぁ。
私は白くない、埴輪色、土色だ、として、
最近はそれを生かして、やたらと黒いファンデーションや粉を好んで使っているじゃんか。
ついでにコントロールカラーやファンデーションも、
使う使わないは別として、
今後の指針になるから調べてもらう事にした。
肌色は思うより白い方に出た。
少しだけ黄色寄り。
信じられない。
私は赤黄土色だってば・・・って・・・全然違うらしい。

で、コントロールカラーは、
ピンクでもいいけど、肌が薄くて赤みを感じる日があるならば、ブルーを勧められた。
「ブルーは顔色のせいか、塗るとグレーになる気がする」と思ったが、
まぁ、ブランドによるか、と、ブルーを選んでみた。
ピンクはたくさん持っているしね。

ファンデーションは、「光りの屈折度」とかいうのがあって、
人は状態が出てしまうから、その日その日で違うらしいけど、
寝不足などで疲れが出ると歪みが大きいらしい。
この日も弱冠歪みは大きめだったし、
今月から来月にかけては貫徹も覚悟だから、歪み対策のクリアアップを選択。
色はそれでもダークにこだわって、白肌作りは嫌いだから、
C2だったけど、暗いC3を選びました。
C3は、通常の101です。
持ち帰ってみたら、私が持つ全てのファンデーションの中では、かなり黄色いです。
ほへ。

けど、ファンデーションなんて、何色を塗っても、肌は同化するんだぜ。
悪いクスミを起こす色もあるけど、飛んだほどズレてなれば、
カメレオンみたいに「その色のフリ」できちゃうんだもん。
だから、どれでも使えるんだよね。

しかし、私はもともとはこのイプサライザーが本当はあまり好きではない。
何故なら顔立ちや顔色に合い過ぎて、
あまりに無難なだけに、
メイク本来の楽しさや、遊び心が感じられなくなる気がする
からだ。
せっかくメイクするのにさ、どうせなら「ナチュラル」より「作為」が好き

けど、選ばれたものでメイクしてみたら、なんとなく顔色が明るく垢抜ける。
色モノも、チークや口紅など、なんだか「可愛い少女系」だから若い・・・。
心なしか、全体的にハリが出て見えたりもする。
肌色に合うチークだから、頬もフックラ。
あ、もしかして、無理やりカッコイイからって砂色やベージュを選ぶと実は損するのかも。

もし、時間があれば、この判定、やってみる事お勧め。
「合わせすぎて無難なイメージ」の「無難な自分」を発見するのではなく、
逆に「新鮮な自分」が見つかるかも

また、肌色の変化も知れる。
きちんとケアしていたら、確実に肌色は明るくなっている・・・ハズ・・
ってバロメーターになり得る。

私は自分の目だけではなくて、顔自体が好みじゃなくて気に食わないから、
もともと客観的に見ていたはずだけど、
目幅が足りないという説明は今まで自分では思い付かなかったなぁ。
顔が細長いのに、
決して望む「鋭角でカッコイイ系」ではなくて、
どことなく幼稚なツラ構えなのは、この、まぁるいオメメだったのか。
  切れ長な目に憧れているのは「無い物ねだり」だったってわけね。
幅はメイクで作れるかもだけどね(限界あり)、全体のバランスとしては如何なもんか。
かなりトチ狂ったバランスと見たね。

という風に、凹んだりもするけどね、
自分をよく知っておくと、演出もしやすいからね。
客観的に冷静に己の顔を知っておくには打ってつけ。
「人」に聞いてもダメよ。
人にどう思われるか気にする表面優しき、本音はただの「良い人演出」な人は、
必ず誉めてくれるからね。
誉めるってのは良い事だけど、人を勘違いさせるのはいけないわ。
正直が一番よ。
機械ならド正直ね。

2005年12月7日(水)


「美容は継続」「美容は1日にして成らず」とは、よく聞きます。

実際は、「美容は継続」「美容は1日にして成らず」を知ってはいても、
忙しさや日常に紛れて、そうそう美容にばかり気をとられてはいれません。
忙し過ぎると、時間があったら、うたた寝したくもなるし、
セコセコとマッサージなんか、してられますかいな。
んな暇あったら、はよ寝るわい。
けど、顔は看板、名刺、汚いツラで人前には出れないよお゛お゛お゛・・、
なんて時、つくづく女は邪魔臭い、
いや、「年食うと」、に限るが、女は邪魔臭い生き物だと思う也。

人は中身だ、人柄だ、と私も思っているけれど、
何度も書くけど、世間は汚れた疲れた汚いオバハンをマトモには相手しないのさ。
きちんと背筋の伸びた小奇麗なオバサマは、きちんと見てもらえるけどね。

それにしてもなぁ・・・
時間に余裕があって美容を楽しむことができる状態の時には、
実は特別に美容なんて全然必要ない。
だって、よく眠っているし、
時間に追われて、いや、追われさせられてイラっとする事がなかったりで好調じゃんか。
で、美容にウツツをぬかす時間がない時のほうが、肌は美容を必要とするんだよな。
困ったもんだ。

また、この年になると、クタばって来た肌を少しでも放置すると、
二度と戻れない、あるいは戻るのに膨大な時間(と金)がかかる、
などと考えたりしてしまいます。

けど、いろんな事してみても、たいして回復しなかったりで空回りし、
どこかしら、ダイエットを諦める女の気持ちと通じたりしてきます。
「諦めたら時点でアンタはただのブタ(ババァ)よ」という天の声も聞こえなくなります。

諦めは怠慢であるからして、
ただブタ(ババァ)なのではなく、心がブタ(ババァ)なのだよ、
頑張るのが「悪足掻き」とは思いたくないね〜。
悪足掻きはある意味、人生を捨てない神々しさだ。
泳ぐのに疲れて溺れた方がラクだと思った時点で人は終わる。
人は溺れて苦しむために生まれてきたかも知れないんだから。
苦しいのを通り越したから、うれしさもあるんす。

と言いつつ、 そうそう。
そういえば、私はすでに来年で40代後半になり、四捨五入すると50歳です。
こうなると、30代後半みたいな程度の老化では済まなくなり、
ちょっとした事で顔色がくすんだり、
ホンの少しの衝撃でババ臭くなる事この上ないとは思っていたんだよな。

無表情な顔が鏡に映っていたら、「ゲ」と思うほどタルミを自覚したりね。
笑っているとわかりにくいタルミちゃんは、無表情だ目立つのよ・・・。
いや、笑っていると目立つシワは、無表情だと目立たないのよ・・・
っと・・・どっちもどっちじゃん。
どっちにしてもババァじゃん。ひゃーー。

これって、やはり、
エストロゲン減少というか、更年期的ダメージが加わる気がします。
「んなもの、すっとこどっこい、知るかよ」と症状には出なくとも、
体の方は、絶対的に老化が進んでいるハズ。
げーーーー。

しかし。
こんな「転機」は今までもたくさんあった。

20代でも自分の「変化」を感じたし、
20代ピチギャルから脱皮する自分が寂しかったもんだ。
20代後半では、ヤケに大人になったつもりで大人ぶっていた。

30代では、40代前半で感じたより、ずっとずっと老化が怖かった。
それも、美容的老化も怖いクセに、20代のように真っ黒になって遊んだのは、
想像通り、いや、予定通り、40代では楽しめなさそうな事を謳歌して、
太陽の下で真っ黒になっていたのは、
別の意味で最後の奔放なまでの若さを謳歌し尽して後悔したくないからだったに違いない。
まだまだ、肌だとか美容的なものは「回復する」と思っていた。
本当は、40代になったら、もっとババ臭くなると踏んでもいて、
少しくらい老化したって仕方がないとも感じてはいた。
けど、悪足掻きしてイシマで日焼けの痕を治せたりもした。
「継続」ではなくて、その場その場で一発逆転、起死回生していたのだ。
それで良かったし。

40代になって、いきなりコスメフリークのような部類の人になってしまった。
まるで、モトから美容が好きだったように。
全然、興味なかったクセに。

けど、実際に私を老け込ませなかったのは、コスメそのものではなく、
コスメを解体し、生まれて初めて聞く成分名と用途を知ろうした努力、
肌の組織だとか、細胞のなんたらかんたらの専門的内容を網羅しようとした、
その行動自体が、私の眠った脳を刺激したから、私を救った気がしたりもする。
そんな40代前半は、実はケアより本やPCと首っぴきだったのも本当だ。

それが高じて、
誰もが良い意味でスキンケアを楽しもうよ、コスメを知ろうよ、
老化なんか怖くないぜ、と謳う、そんなサイトを立ち上げたからには、
責任感を持って、いろんな事を発信する事が日常となり、
それが私をアクティブにさせたと思う。
ネタとして「試す」事がケアという糧になり、クダばってもクダばっても、
いろいろ試していたら、何ががうまい事当たって、一発逆転、起死回生を体験できた。


なに、私は、
20代から順に言うと、
恋愛に夢中になり、マリンスポーツに夢中になり、子育てが楽しくて、
そして
いつの間にかコスメ解体とその真実を追究しようと夢中になった、
それだけだ。

その中その中でも、緻密に言えば、毎度違う事に夢中になった。
世界文学日本文学に夢中になり、
何故にこのような小説が書けたかと作家の人生を知りたがり、
地球上でさえあれば、いちいち作品中に登場する土地を踏んで確かめたがり、
地層を見たからインディアンを研究し、
ラスベガスを見れば成り立ちを調べだしたから
マフィアや砂漠にあるダム建設の経緯まで調べだし、
未だ占領国である影を見たから第二次世界大戦を知り尽くそうとする。
私には、媒体はなんでもいいのだ。
きっと、一生、何かに夢中になっているだろう。

そんなだから、本当の本当は本の方が好きだから、
ケアは二の次三の次となり、
けれど、いかにも「語る」ので、ケア好きだと思われているだろう。
私はね・・・使ったコスメを体感して解体したら、それでただ満足なのだよ。
本音は美容はアッチ向いてホイ。
ただ、ウマイ事、老化がガツンとやって来る40代でコスメに興味が働いたから、
なんとか保てているのだろう。

って言ってて、放置していると、
あっち向いてホイって調子で老化の坂を転げ落ち、
「よく居る50代のオバハン」と成り下がるのか?
う〜ん・・・イヤだ。

けど、
私は「起死回生」、あるいは「一発逆転」ってのを何度も経験している。
これが強味?だ。

最近は、季節の変わり目に肌が荒れたからだろう。
うまく調整が効かないで、どうもパッとしない。
なんてせパッとしないのだろう・・・
と考えるに、あ、そうか。
あまり本腰入れてケアしていないのだわん・・・。
ここに「語る」から、しっかりやってそうに見えるけど、そーでもない。

さて、「起死回生」「一発逆転」したいもんだ。
これの方法。
これはね、その時その時で違う。
状態で違うというのが正しいけど、
もっと厳密に言うと「加齢している」事もプラスされるから、
一昨年、一発逆転した方法ではうまく行かない事もある。
忘れていないか?あれから2年経っている事を・・・って話し。

でも、あきらめるほどの事もない。
あーだこーだそーだと、まずは手持ちのスキンケア品を工夫して使ってみるべし。
今までの経験で、
新たに何か買って開拓したくなるけど、悲壮感を持って選ぶとロクな事はない。
家のローンほどに高いものを買ったって、期待ほどに効きはしない。

けど、バカったれなほどに高価なコスメを使うと、
いかにも起死回生しそうだから買いたくなる気持ちはよくわかる。
私も、
YSLのタンマジュールシリーズか、エスティローダーのアメティメイトシリーズか、
1月には値上がりしやがるラ・ブレリーのセルラーラディアンスシリーズか、
1月発売のイシマのスゲェクリームを先行発売ででも買ってやろうか、とか、
何かこう・・・スカっとしそうなブツを突っ込みたくなったりもする。

けど、まずは書いている通り、手持ちをこねくり回したのだわ。
そして今回は、
オバハン汚れをこそぎ落とすように、しっかりクレイとスクラブで洗い、
ミストアメリオーレを吸い込ませてから、
Dr.kana-coの化粧水をたっふり入れて、
ジェルアメリオーレを吸い込ませまくり、
夏に調子が良くてご満悦だった「クリームパック」を思い出し、
「マイオリジナルCoQ10・5%クリーム」をたっぷり塗ってから、
ラヴェリーのハイドロクリームを分厚く塗って、
上からフローラルウォーターをたっぷり含ませたシートでフタをしてみた。
ぎょおおおおってほどに、肌は起死回生の一発逆転。
口元のタルミはボリュームで消え、フクフクした。ガッツ。

まずは安泰。錯覚でもいいのよ。気分が良いから〜。
悲しいのよね、鏡に映る老化したババ肌って。

という、流れ流れな随筆でした。

2005年12月5日(月)

ハウシュカのリバイタライジングクリームマスク

ハウシュカの本当のケア方法って、
肌の再生機能を取り戻すために、夜には油分を全く与えないという、
乾燥オバ肌には強烈に恐ろしい方法。
それで肌の自活力が付くのは助かるけどね、
あのアルコール臭い、しかも、肌にスィっと入ってしまうトナーだけで終わらせるなんて、
私には怖くてできましぇん。
こんなに代謝も再生も遅々として進まなくなっているはずの、
昔なら棺桶に片足突っ込んでいるも同然な年齢になっている今更の今更、
果たして自活力なんてあるんすかねぇ・・・と、
多少は植物ケアで再生能力を自覚してもまだまだ不信でしゅ。
ちょっとした事で肌はくたばりますがな。
ちょっとした・・・って、3日以上の超寝不足なんか起こしたら、
もう肌は死人みたいですぜ。
そこにまだスパルタケアをせよと?

しかし私はハウシュカの製品は比較的好きなので、
そういう教えは全く無視して使っています。
特にリップケアスティックが好きで、
それだけじゃ2本としても、そしてハンドクリームを2つ足しても、
注文すると「送料」がかかりやがるので、
いつもクレンジングなりローズデイクリームなりを一緒に購入してしまいます。
私は送料使うなんて信じられないっっ、なんて思うケチなんだわさ。

そして先頃、
「ナイトクリームを使っていた人がオイルフリーのナイトケアに切り替えると、
慣れるまでの2〜3週間は、肌がかさつく感じがするので、
慣れるまでは、毎日夕方にリバイタルパッククリームでパックを行うと、
肌の正常化・活性化が促されます」
という、簡単に言えば 「ハウシュカ方式に慣れる為のパック」と謳うから、
ハウシュカ方式に慣れる気など全くない私は無視していた
「リバイタライジングクリームマスク」を使ってみました。

薄い卵色寄りのグリーンの、どうでも良い香りの、ツヤを持つクリーム状です。
これは20分も乗せておかなくてはいけません。
植物モノって、私が思うに、
クリームだとかパックだとかは浸透がドン臭いみたいですね。
しかも、量が・・・クリームにしてもそうなのだけど、
「大量」と言っても良いほどにたくさん使うと効果を感じたりするものが多いです。
このマスクもそうです、というか、もともと「大量に分厚く塗れ」とあります


で、ひょっとして、これって本当に、
肌にシンシンと吸い込んだか、あるいは 蒸発?・・・したみたいになくなるし、
案外後肌が油っぽいから、それからケアをするのもなんだかな、な感覚なので、
「全てのケア後に厚塗りして放置」って方が合ってるんじゃないか?と思い、
私はアルージェウォーターシーリングマスクみたいな使い方に変えてみました。
グェェ。
なんかコネコネだ。良くない。

結局、このマスクは、「これだけで使う」方が良いみたいです。
ババァとしては、なんだか心もとないケアですが。
ってか、簡単シンプルは助かるとしても、非常に退屈でつまらないと言うか・・・・
「肌を触る」という機会が激減するのが心もとないのだな。
私は、肌って、手のひらの体温で触れば触るほどに
「手入れしている」という気がするもんだから・・・。
ヘタに触り過ぎるのも良くないのかも知れないけどね、
トロトロノタノタしている血とリンパを叩き起こしたい気がしてしまうんです。

このマスクは、
「肌の疲れやかさつきを感じる時など、集中ケアとして2〜3週間毎日続けて
 パックすると肌の再生機能を高めます」
とあるのですが、
私には、「これだけケア」を2〜3週間する事に耐えれるかどうか自信ないです。
けど、多忙な年末年始が過ぎたら
「骨休め+肌休め」という感覚で、チャレンジしてみようかと思います。

しかし。
これって、マスクのクセに、たったの30gです。
「大量に分厚く塗れ」とあるのに、なんて少量なんでしょう。
なので、初めから2つ注文したんです。
そして。
考えるに、なんちゅう高価格パックなんだしょう。
シスレーの、例えばエクスプレスマスクフラワージェルとほぼ同じくらいじゃん。
シスレーは3種類のパックを試したけど、
どれも効かないのに高くて腹立ったけど。  

で、思うにハウシュカって、クレンジングも「たっぷり使え」とあり、
フェイスウォッシュクリームも「たっぷり使え」とある
わね。
一つの価格は比較的良心的だと思うけど、
実はすんごい高価格化粧品なんじゃない?と思ったなり。
今更、気付いた私。
見た目もコンセプトも素朴なのに、高級ざんす。     

また、
「毛穴が目立つ、ニキビ跡が残っているなどの慢性的なトラブルの場合には、
リバイタルパッククリームをクール方式で使用すると肌質の改善に役立ちます。
クール方式では朝、日中用クリームとして薄く肌にのばして使用します。
4〜6週間毎日続けて使った後はしばらく使用を休止します。
これを1クールとし、肌の状態が良くなるまで繰り返します」
という方法もあるそうで、試しにデイクリーム代わりに使ってみました。
薄く塗る分にはモロモロは出ません。
そして、意外と肌表面がマットになり、ベースメイクに入りやすかったです。
デイクリーム代わりに使うのも良いかも・・・。

    

いきなりですが戦艦大和

今日は、コスメと関係ないテーマも書きます。
父は、今年の8月に躓いてコケちゃって以来、あまり外に出なくなったんです。
持病はあるけど、生活習慣病系なので、脚を動かさないのはマズいです。
脚は心臓のポンプだ。

で、その父を外に連れ出そう作戦で、
おお、近場に父が興味を持ちそうなモンがあるじゃないですか。
広島の尾道という坂だらけの町に、
「おとこたちの大和」という映画のセットに使われた
戦艦大和のレプリカが公開されています。

ま、「おとこたちの」はどーでもいいんですけど、
「大和」ではなくとも、
父の父、私のおじいちゃんは、かの昔、神戸の川崎造船で技術士をしていて、
「瑞鶴(ずいかく)」だとかの空母や、
伊号(大型)潜水艦、駆逐艦などの造船に携わっていました。
試運転には必ず同乗するので、何度が地上に出られなくなったとかとか。

で、父は昭和2年12月生まれなんですが、
15歳まで神戸に住んでいて、家族だからいろいろな進水式も見ています。
観艦式なんかも思い出深いものだそうです。
で、現物大(ケツは切れているが)の大和のレプリカを見に行こう、というと喜んだので、
10月某日、まだまだ半袖で歩けるくらい暖かい小春日和に行きました。

尾道は、私自身、すでに3回も行った事があって、どーでも良かったんですけど、
父の父の父の父、まぁ、私のひぃひぃじいちゃんですか?のお墓もあるんです。
この人は、因島で塩田を持っていました。
今はないがね。海岸になっとります。
残しといてくれや〜〜、ってなモンですがね。
あまり休みが取れない息子も、2箔ならできるから、主人、私と4人で車で総出です。

父は甲板を見たとたんに、うれしそうに微笑んでいました。
似たような空母に乗った事があるので、なつかしかったのでしょう。

しかしなぁ・・・このレプリカ、あの戦艦のシンボルとも言える「艦橋」がないんだぜ。
映画の艦橋はCGなのか?あるいは、ハリボテで外さざるを得なかったのか・・?

すごく見にくいけど、
中央辺りの尻切れ船が戦艦。
日立造船所跡の浮きドッグです。
撮影は尾道の山の上の千光寺より。
なんだかレプリカ丸出しですがね・・・。
このチーク材に金箔の菊の紋章は、
沈没した海底でまだ金色のままなんです。

美化話しが多いけど、
本当は、海戦から空戦に移ったので、
ただの 「用なし無駄戦艦」なんですね。
最終は「沖縄で砲台になれ」という命令により、
「特攻自殺戦艦」として出撃するも、
当たり前だが途中で撃沈されました。
航行中に目立つっちゅうの。

当時、中は「大和ホテル」と言われていたほどの
設備でした。
   
↑大和艦内の様子がわかる説明。
思うより自由なイメージ。
コンビニ?の価格は、
艦上ゆえに地上より高価だったと想像します。
   
機関銃?対空砲火かな・・・。
46cm砲の砲台。当時世界一巨大。
ニュースステーションでは、ここで
長淵剛さんが主題歌(題は忘れた)を
歌っていました。

父の第二次世界大戦

さて、大和はまぁ良いのですけど、私が書きたかったお話しは、
んな小旅行ではなくて、
「戦後60年/語り継ぐ戦争」という、NHK番組みたいなお話しです。

実は、父は戦争に行っています。
話しを聞く限りは全てがギャグなので、いつもテキトーに聞いていたのですが、
いや、壮絶な戦争体験記がたくさんあるので、
比べると中身はバカらしいのですけど、ある意味では、なかなか貴重な体験です。
かなりアホらしい内容で本にもなりゃしないので、私がこんな所に発信しようかと思いました。
興味がなかったら飛ばして下さい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第二次世界大戦は、父が14歳の時に開戦。
私が8月に思いっ切りなじった「ズルい奇襲攻撃」から全ては始まりました。

昭和17年、父が15歳の時、父の父が神戸に住む危険を察知して、
福岡に住居を探して、家族は移転。
父の父だけ神戸に残りました。
  神戸に残って空母や潜水艦や駆逐艦などを造り、後に呉にも行ったそうです。

昭和20年になり、3月に神戸に大空襲が起こりました。
全く音信不通なので心配して、
父と父の兄が二人で何時間も汽車に揺られて様子を見に来たのだそうですが、
神戸の家は焼け果て、いや、町全体が壊滅状態だったそうです。
で、父の父は造船所の事務所で寝泊りしていたそうですが、
息子2人を見て、
「よう来たな。けど、な〜んもないで。もう帰り。ホンマにな〜んもないでぇ」
と言ったそうです。
で、父と父の兄は、生存だけ確認した格好で、
おにぎり包みを持って、また何時間も汽車に揺られて帰ったらしいです。

当時、福岡で学生だった父は、
学徒動員で、「九州飛行機」という飛行機会社で働かされたそうです。
学徒動員とは、兵に行く者の事かと思っていたのですが、
こういう強制労働も学徒動員と言うのだそうです。

そんな折、
昭和20年の5月、 憲兵が来て、紙にサインと母印を求められました。
中身はよくわかっていません。
もし、拒否しても殴られてサイン捺印するしかないような時代です。
それでも抵抗したら、
非国民となじられて牢獄か、もしくは、どのみち軍事工場で働くだけです。
そのサインは結局、「我、自国のために戦う」という約束でした。

父は当時17歳でしたので、
兵隊志願しておらない限りはギリギリ徴兵からは免れていたわけです。
しかし、戦局が悪化の一路を辿り、
すでに、少年から八百屋のオッサン、瓦屋のオッサンまでが兵として集められたのですが、
なんせ、少年ですので、何か承諾みたいなサインが必要だったのでしょう。

だから父のところに来たのは、「赤紙」ではなく、「青紙」だったそうです。

  通称「赤紙」とは、軍が予備役兵を動員するときに送った臨時召集令状です。
  臨時召集令状は一度徴兵されて兵役義務を終えた後、
  予備役になっていた人の所にくる物です。
  新兵の場合は徴兵検査の後で召集令状となります。
  戦争時中はいきなり家庭に送られてきて戦争に行く羽目になりました。

  これに対して軍需工場などに徴用される徴用令状、通称「白紙」という物もあります。
  予備役期間も終えていた年齢層の高い人(30過ぎぐらい)の人に来ました。
  そして父にところに来たのは、「青紙」という「臨時勤労動員収集」みたいな物らしいです。
  冗談みたいな紙ですな。


父が配属されたのは、記憶が確かであれば、「福岡四十六連隊」らしい。
大隊、中隊、小隊、と、隊はいくつもあったそう。
ヤル気のない少年兵は、ただ言われるままに居ただけみたいです。

まずは、現在の福岡平和台球場(福岡城跡)に招集され、
そこの兵舎で過ごしたそうです。

ある日、夜に空襲に合い、
福岡城跡のお堀(今の大堀公園です)に逃げて飛び込んだら、
堀の水は焼夷弾の油脂だらけで、その中を掻き分け掻き分け向こう岸に辿りつき、
黒門という水路をつたって海岸まで逃げたのだそうです。
戦友と共に、このまま姿を晦ましたろか、と思ったけど、
しょせんは憲兵に見つかったら捕まるし、しょうがなく兵舎の方に戻ると、
何もかも焼失していたそうです。

そこで、
今度は焼け残った「すのこ寺」とかいうお寺に集まれ、と言われて向かったのですが、
兵たちが一杯で隙間なく暑いわ、蒸し蒸しするわ、臭いわ、で、
「こんなとこにおれるかい」と思ってフと目に付いた地下に続く階段が。
それを降りて行くと、なんだかわからない部屋があり、
真っ暗だけど、涼しくて心地良いので、数人の仲間を呼んでスヤスヤと眠ったそうです。
で、うっすらと天井の一部から朝日が射し、目を開けると、
なんと、そこは「納骨堂」だったのでした。
「うひゃあ!」と言って這い上がったとか。
通りで涼しいわけです。

そして翌日から、空襲後の整理に追われました。
その主な内容は二つ。
「不発弾処理班」と 「死体(空襲で燻されて亡くなった人などの)処理班」。
さて、燻製になった死体と、爆発したら死んじゃう不発弾。
どっちの処理を選ぶでしょうか。

父が選んだのは、不発弾処理でした。
どうしてもネロネロの死体は触れないと思ったとか。
私もそうするかな・・。

で、その不発弾の処理というのは、
まずはあちこちに飛び散っている不発弾を集めます。
そして、六角形のビール瓶くらいの大きさの下部にイボのように突き出たものがあり、
それが真菅なので、それを押さえつけると爆発しない仕組みです。
ので、板とタコ糸を渡されて、板で真菅を抑えて、糸で括りつけます。

そしてそれを荷車で、もと兵舎の真ん中の広場に集めます。
運ぶ際に凸凹道があると、爆発の危機があり、皆が皆で荷車の側から逃げ出したそうです。

集めた不発弾の六角形のネジの部分を外すと黒い火薬がドッサリと出てくるので、
今度はそれを集めて燃やします。
ところが、この作業の際に、いきなり斜め前の兵士が爆死しちゃうのだそうです。
真菅の押さえ方が甘かったり、糸がゆるんだりしていたのだそうです。
ここで一応、命からがらな感覚です。

その後、何もかもなくなっていたので行き先を告げられないまま行軍しました。
「どこに行くんやろか」と思っていたら、友達がいきなり、
「久留米や。久留米隊って書いてる」と言ったそうです。

そこで小銃と鉄カブトと弾薬と背嚢と水筒と毛布をもらいました。
背嚢には、米と塩とミソなどの食料と、下着、日本手ぬぐいなど。
また、「アンパン」と呼ばれた爆雷と。

アンパンは、
「戦車が上陸して来たら、キャタピラを切れ。アンパンを持って飛び込め」
と言われていたもの。

これが、完全武装で48kgくらいだったとか。
これで、また行軍するのです。。
背嚢の肩の部分が肩に食い込んで痛みながら、銃がさらに重しとなりつつ、
友達は
「十字架を背負ったキリストの気持ちがよくわかる」などとほざいていたそうです。

行き先も教えられないまま、山道の夜間行軍が始まりました。
靴の中の足が踵も指も破れかぶれでも、
一度靴を脱ぐと痛みで再度履く事ができないほどのボロボロ状態なので、
編み上げ靴の紐の部分だけ開いて、水で溶かしたホルム酸を靴に流し込んで消毒したそうです。

食事は当然、飯盒で自活。
ま、今ならキャンプ気分ですが、綺麗な水などどこにもない状態で、
そこらの泥水を日本手ぬぐいで濾して炊いたので、せっかくの白米は茶色かったそう。
水筒の飲み水も日本手ぬぐいで濾した水だったそうです。

この時は、虱との戦いもあり、
もともと久留米隊でもらった毛布には虱が付いていたそうで、
なんだか綺麗事みたいに美化されている、腹に巻いた「千人針」は、
虱の恰好の住家となるので、皆で捨てちまったそうです。
当時、虱退治は、各家庭でもドラム缶で湯をわかした中で煮沸させるのが通常で、
山中でそういう事もしたそうですが、千人針も人数分となると大量になるので、
まずは毛布優先だったのです。

行き先は途中で阿蘇の山が見えたのに誰かが気付き、
つまり南西へ向かっている、という程度はわかったそうです。
ほとんどがこの間まで、戦争中とはいえ、決して軍人ではなく、
ごくフツウに暮らしていた人間ばかりの隊はひ弱で悲惨なものだったでしょう。
夜間行軍は、3〜4日だったように記憶しているそうです。

そして着いた先は、
あの、アメリカの本土上陸地点として確率の高かった、
鹿児島、宮崎にまたがる志布志湾の宮崎側の海岸でした。
  もう一つの本土上陸推測地点として有力なのは、千葉の九十九里浜でした。

しかし、父らは、そこがんな最前線であるという事など知る由もなく。
とりあえず、美しい海にはしゃぎ、
まずはボロボロの軍靴を脱ぎ捨てて皆で足を洗ったそうですが、
海水がしみて悲鳴が上がったそうです。
その後は痛みですぐには靴が履けない状態ですが、
砂浜が熱いので、皆で木を切って、足の大きさに合わせた板を作り、
紐で巻いて簡易下駄にして履いていたそうです。
奇妙な歩き方しかできないし、本物の軍人さんなら叱られたと思いますが、
なんせ臨時召集の少年と一般人ばかりなので、上官も見て見ぬフリだった様子。
毎日海水で足を洗っていたので、約1週間後には、皆の足は完治したそうな。

さて、ここでの指令は「塹壕を掘れ」です。
この「塹壕」は、通称「タコツボ」。深さは1,5〜2メートル。

つまり、大本営は、アメリカが上陸して来たら、
できるだけ水際(海岸)で食い止める作戦を立てており、
それは非常に原始的な作戦で、
「タコツボに潜んで銃砲の砲身を水平に据えて、
  海岸に殺到する上陸用船団を狙い撃ちせよ」、
あるいは、
「タコツボに蓋をして、
 地上で戦闘があっても無視したまま竹筒から酸素を取り込んで立て篭もり、
 戦車と歩兵部隊をやり過ごした後、頃合いを見て飛び出して背後から突撃せよ」、
あるいは
「タコツボに潜んで上陸する戦車にアンパンを抱えて底から体当たりせよ」
という人間爆弾強制だったのです。

そんなこんなアホらしい作戦に勝算があるかないかはさて置いて、
大本営は、
アメリカ軍の戦略目的である東京への進撃路を日本兵の屍をもって埋めつくせば、
アメリカ軍に精神的にパニックを与える、とか、しょーもない事を考えていたそうな。
アメリカ軍はすでに空からの神風自殺特攻で、 日本人の精神を無気味がっていたというのに。

父はこんな作戦を聞いても、ワケわからん〜っと、とりあえずタコツボを掘るしかないので、
毎日毎日黙々と掘り続けたそうですが、
実は「砂浜」であったため、掘っても掘っても掘っても、砂がザラザラと崩れて来るので、
少しも出来上がらなかったとか。
海水で固めて作ってみても、地上に上がる際に土砂崩れ。
ふざけているわけではなくとも、全く、ガキの遊びみたいなくだらない事を繰り返したそうです。

そして、そこは、熊本や福岡への空襲に向かう通過点ゆえに、
毎日毎日B29が来襲したそうです。

何が怖いって、グラマン戦闘機の来襲だったそうです。
グラマンは主に日中に襲来し、しばしば大きな空襲を起こしました。
ゼロ戦闘機などは2列の弾を飛ばすのみですが、
グラマンというのは20mmの機関砲を一気に4列で飛ばします。
その20mmの機関砲というのは、線路の枕木3枚の厚みを簡単に通過し、
土嚢さえ通す威力だそうです。

しょっちゅう空襲警報が鳴ったそうで、
父が言うには、「またうまい事、人が飯食べてる時間に来やがる」そうで、
毎度慌ててご飯を手に乗せてオニギリを作りながら走ったそうです。
何故なら、警報が終わって食堂に戻ると、残したご飯は全て消えていたからだそうです。
皆が少ない量の食事で飢えていたから、ドサクサに紛れて誰かが食べてしまうんですね。

ある日の父は、自分の位置から防空壕には遠くて及ばず、
慌てて井戸に飛び込みました。
幸い、水は干上がっており、腰までしか満たなかったものの、
地上に這い上がる事ができず、長らく助けを待ったそうです。

ある日は、松の木の後ろに隠れた者が居たけれど、
空襲が終わっても、いつまで経ってもそこに座ったままなので、
声をかけに行ったら、グラマンの弾が松の木どころか、鉄カブトまで突き抜けており、
即死していたそうです。

そこには木を組んで作ったオンボロの火の見櫓のような見張り台があったのですが、
当番制で二人一組で空からの来襲の見張りをしました。
しかし、さして高くはない見張り台からでは、
B29もグラマンも高度が高くて見えない場合多々で、
見えた時にはすでに襲撃が始まっているのが常だったとか。

そこには、兵器や食糧などの物資を貨車で運搬するために、
引き込み線が作られていたそうですが、
父が見張り番だった時、グラマンが、
その引き込み線の終点に点された赤いランプ目掛けて爆撃したそうで、
内臓が飛び出すほどの爆音の中、 見張り台が左右にグラグラと揺れ、
一緒に見張り番をしていた者に「降りろ!」と叫んで先にその人が梯子に足をかけたものの、
全然進まず、
「何やってんねん」と言うと、
「足が震えて動かん」と言ったそう。
父は上からその人の鉄カブトを小突いてけしかけて、やっと地上に降りたそうです。

そんなこんなな毎日が続き、
相変わらず崩れる砂と闘いつつタコツボを掘っていたのだけど、
フと気付くと、将校らが一人とて居なくなっていたそうな。

そういえば、戦闘機だって味方機も敵機もトンと見ない日が続いていたとか。
皆は口を揃えて
「とうとう日本の飛行機だけやなくてアメリカさんの飛行機もなくなってしもうたんやなぁ」
と呟いたとか。

将校も居ないので、秩序も崩れたものの、
各隊にはたくさんの人数が居るわけで、各隊の隊長が皆をまとめていたと思われますが、
物資も全く来なくなり、問題は食糧の調達となり、
倉庫に残された米と塩だけでは持たぬゆえ、
離れた農家の牛や豚や鶏をそっと捕まえてはさばいて食べたとか。
父は鶏係?で、紐の先にエサをくっつけて鶏をおびき寄せたって・・それじゃ魚釣りじゃん。
もちろん、魚釣り係も居て、野菜調達係も居ます。
魚釣りはまぁ良いとして、野菜は簡単に言うと畑からパクったのですな。
農家の人に「泥棒!」と叫ばれると、
キリッと前に立ち、「貴様、帝国軍人を泥棒呼ばわりするかっ」っと
小銃をかざしたとか・・まぁ、犯罪ですが、そんな世の中なので放免か。

牛や豚はどうやってさばいたかというと、
しょせんは一般庶民の集まりだったので、
中には肉屋も居たし、調理に当たっては、調理師も居たからなんとでもなったのでした。
当然、町医者も大工も水道屋も塗装屋も服の仕立屋も瓦屋から小説家に詩人から、
なんでも居たのさ。

空襲もなく、うるさい将校もおらず、たらふく食ってはよく眠ったので、
戦争中なのに父の周りは父も含めて太ったとか。
しかし、いつ将校が戻るやも知れず、タコツボは掘り続けたそうな。

そんな折り、ある者が皆の手紙を持って街の郵便局に行った為、ようやく終戦を知ったのでした。
本当の終戦日から半月だか1ヶ月ほど経っていたような気がすると言っていました。

皆で「どうするよ?勝手に帰っていいんやろか」と言いながら数日経った頃、
ようやく司令部から人が来て、それはアメリカの軍人も同行でした。
戦争に負けた事を知らされ、
その時に、小銃、剣、弾薬、鉄カブトなどの武器の全てが押収され、隊も解散されました。

しかし、帰る手立ては何も知らされないので、各自、勝手にどうにかして帰るわけです。
歩いて帰るのには無理があるので、皆でゾロゾロと旧国鉄本線まで歩きました。
鹿児島―宮崎―福岡を結ぶ日豊本線です。
しかし、滅多と汽車は来ず、
すでに鹿児島から乗ったモト兵士で埋めつくされた貨車が来たので飛び乗ったのです。

その貨車は、木の柵で作った隙間のある荷車で、
おそらく家畜を運搬するものだったのだろうと言う事です。
トンネルの度に黒煙で真っ黒になりながら、鮨詰め状態のまま、
途中停車ばかりの貨車に揺られる事、何十時間。
時間は記憶にないというか、時計がないので、
記憶では2回の夜を迎えたから、30時間くらいなものだったか、という事です。

しかし、鮨詰めはまだマシで、乗る場所がなくて貨車の屋根に乗った人は、
高さギリギリのトンネルにブチ当たっては死んでしまったそうです。
トンネルに気付いて伏せた者は助かるのですが、
進行方向を背にしていると気付かずにブチ当たるのです。
「そういうのも戦死なん?」
「さぁーー。どうなんやろ。家族は帰って来んから、戦死したと思うやろうなぁ 」って・・。
護国の為にトンネルにブチ当たっての名誉の戦死なんすかね。

父が近所の友人と福岡博多に到着すると、町は焼失していたそうで、
とにかく水道を探すも、ほとんどの水道が壊れていて水が出なくてさ迷ったそうです。
しばらくして、逆の意味で壊れた、水が出っ放しの水道を見つけ、
かなり長らく並び、水を飲んでから、友人と真っ黒の顔を洗いあいました。

もう家も燃えているかもなー、と歩いて行くと、なんとか焼け残っていたそうで、
帰ると家族は驚いていたそうです。
父はとにかく、丸々2日ほど眠りをむさぼったそう。

しばらく後、予科練に行っていた友達が、
福岡(板付)空港に赤トンボ(練習機)に乗って帰って来ますが、
「落下傘をたくさん持ち帰ったから、トンボに取りに行こう」と誘いに来ました。
当時の落下傘地というのは、羽二重のシルクなので値打ちがあったのです。
父はそれを持って仕立屋に行き、ワイシャツを何枚も仕立ました。
ただ、もとが落下傘なので、一つの生地の幅が狭く、
背などの目立ちにくい場所で剥いで作られました。
父だけではなく、父の兄も弟も喜んで着用したそうです。

また、その友達は、
当時カッコイイと人気だった飛行兵が履く「半長靴」を何足か持ち帰っていたので、
それも分けてもらい、後にバイクに乗る時などに愛用したそうです。

しかし、父の戦争は、本当には終わりませんでした。
まだまだ戦いは続くのです。
これは戦後に生き残った者は一部を除いてほとんど体験した新たな戦争だと思います。

神戸から福岡の家に戻った父の父は、ある意味で呆けてしまい、
兄は体が弱く、習字や俳句作りばかりしていたので、
次男であった父が、
その下に居る6人の兄弟を含めた家族10人を食べさせなければなりません。

増して、1945年の米の収穫高は最悪で、食糧難は深刻でした。
1945年10月17日の新聞に載った当時の蔵相の言葉は、
「日本は現状のままでは来年度に於いて、
  餓死、病気などで死亡する者は約一千万を出すのではないか。
  食糧難、住宅難、病院医療施設の不足から来るもので、
  10年以上にわたった戦争の結果、国力は消耗しつくした」。

記録によると、例えば同11月の大阪の4人暮らしの家庭への配給は
「野菜は月に1度だけ。1人玉葱1個、芋づるのみ」。
そんな状態。

都市で空襲や建物の強制疎開で空き地になった場所で
物々交換する事から自然に始まった露天市場、
つまり闇市で食糧を調達するしかないのですが、
インフレでお金の価値が下がっていたため、
物々交換するか、新たに稼ぐしかない世の中、
「拾った昆布が売れた時代」に、
父もアルミで鍋を作って売ってみると飛ぶように売れたそうです。
   そのアルミというのは、アルミのインゴットで、当時、飛行機工場の社長が、
   「どのみち国に没収されるか、賊に盗られる」から、ドブ川の底に隠していました。
   見つかったら「物資隠匿罪」で逮捕です。
   それをその社長の息子と一緒に、
   真夜中にドブから出してリヤカーで鋳物工場まで運びました。
   手がドブのばい菌で爛れたそうです・・・。
   で、鋳物工場の社長に鍋を作ってもらって売りさばいたのですが、
   鋳物工場のオヤジは、リベートを5割も取りやがったそうな。
   
そして西へ東へと、
戦争で同じ隊だった油屋を訪ねては油を分けてもらい、
農家には作物を分けてもらい、
次の駅で検閲に引っ掛かると聞けば汽車を降りて歩く、という食料の調達が続きました。

物凄い壮絶な戦争体験記というものがたくさんあるので、
あまりにお笑い草な父の戦争体験でしたが、
私にとって一番身近な戦争を体験した者の生のお話です。

父はその後、きっちり福岡人になって、山笠祭りにも毎年参加していました。
そして私が生まれて2ヵ月後、大阪へ。
昭和の高度成長期を思いっきり体験したエコノミックアニマルでありながら、
よき家庭人でもありました。
私は本物のパパっ子で、いつも父と一緒でした。

最終的に神戸市内に近い兵庫県に住んでいますが、
「年とったら、生まれた町へ戻ってくるんかな」などと言ってました。
が、父が思い出のある何処へ行っても、何もかも変化してしまっていて、
面影すらないそうです。
埋め立てだらけだしね・・・仕方ないよ。
けど、当時の同級生数人とは再会を果たしています。


そうそう。
最初の大和レプリカを見に行って、階段もたくさん登り、父はまたどこにでも歩き出しました。
最近は、ジジ友(私曰くは年寄り連合)と紅葉を見に行き、
今月にはジシ友と沖縄旅行に行きます。
人間は歩かなくなると、どこもここも故障し出します。
良かった良かった。